五月は後半になる程雨が多くて気温が下がり気味でありGWの期間が一番暑かったような気がします。先週の月曜日などは雨で台風が近づくなどと言われて肌寒く、何時もは開けている事務所の窓を閉めないと冷たい風が身体に沁みる位でしたが、灘区青谷の松陰女学院では他所より早く第三の月曜より制服が夏服に変わることが近年恒例となったそうで、19日の夕刊に通学路で半袖となった学生さんの姿が写真まで載っていましたが、夕方から驟雨となり気温も随分と下がりましたから、松陰の女学生さん達きっと粟肌(とりはだ)を立てて風邪を引いた学生も居られたのではないでしょうか。(;;)校則も少しは柔軟に取り扱わないと風邪から肺炎にでもなられ父兄が強い昨今学校が訴えられでもすれば窮地に追い込まれますよ(;;)先生だけセーターなど着込んで居たことが裁判の焦点になったりして…(;;)
大阪の “ユービー” とかの不動産会社が数十件に亘って賃貸マンションの階層の水増しをしていたことが発覚し大阪市の杜撰な審査が明るみに出て参りました。分譲マンションでなかったことが不幸中の幸いでありましたが、この事件は“ユービー”の建築したマンションの一住民が天井の低いことや壁の薄いことに気付いて市役所を訪れて役所の図面が9階建てであるのに実際は11階まであると証言し、担当者と実地検分まで行い2階を勝手に追加した違法建物であることを市は確認しながら、市はその後何の対応策も講ぜずに放置し、メディアの出馬に慌てた市は“報道機関の指摘で初めて知った”と虚偽の説明をしていたそうですから全く怪しからん話であり、一体監督官庁と謂うものは何のためにあるのか訝しく思いました(;;)が、大阪市も違法な階層の確認はしながら何らの是正命令も出さずに荏苒と放置していたことは業者と市の住宅局の役人が癒着していたとしか思えず、癒着の事実がないのなら事態はもっと深刻であって住宅局は月給泥棒であり、何も仕事をしないのならこんな局はない方がマシで閉鎖すべきでしょう。斯くなれば市の財政難と闘っている平松市長の英断を待たねばならぬのでしょうが、こう云う事件は兎角“忙しかった”とか“今度調査する予定だった”とか言い逃れて誰も罪人にならぬのが常としたものですから、一度前例を作って彼等を処罰してやれば何処の自治体も慌てて真面目に仕事をするようになるのではないでしょうか。{%怒りwebry%}
今回は幸いにもメディアの知る処となったために市も仕方なく重い腰をあげることになりましたが、此は何も大阪市に限ったことでなく、何処の市町村でも当たり前のように行われていることです。うちでも近くで阪神淡路大震災のために家屋が全壊した三角の跡地30坪に立てられた建て売り住宅(ナント!2軒も)が建築申請時に市に出された図面の写しを知り合いの不動産業者から偶然見せて頂き、完工した建物が図面とまるで違って広くなっているのに気付いて、明らかに建蔽率に違反した家屋であることから、神戸市の住宅局に電話して文句を云った処、住宅局の係員がどう言ったと思われますか?“できてしまったものは仕方がないんじゃないですか?できる前に言って貰わないと…”この回答にはアホらしくて二の句が継げませんでしたが、できる前に分かったら神様じゃ!建築基準法を護らねばならぬ役所がこんな杜撰なことでは欠陥住宅が続出して当たり前ですよね。阪神淡路大震災の地震災害が起こった背景には自治体が黙認したこんな欠陥住宅も原因の一つとして数えねばならぬのではないかと思ったものでした。(;;)
大正6年に創刊され90年以上の歴史を持つ女性向け月刊誌“主婦の友”が遂に今年の6月号を以て苦渋の休刊(実際は廃刊だけど格好が悪いので…)をすることとなったと毎日新聞が報じました。女性が主婦ではないことを宣言したものであり、大きな一つの時代の終焉を迎えたのでした。此の大手の出版社は20冊もの女性向け月刊誌を発行していますが “主婦の友”が社名でしたから横綱だけ転けたのでは皮肉な話ではありましたが、当初はインテリのイメージの強い“婦人”に対して中産階級である奥さんの雰囲気を“主婦”と位置づけての登場は時代の流れにも上手く乗って好調だったようでしたが、戦後復刊してからウーマンリブが叫ばれるようになって事情が変わり、何時とはなく“主婦”や“婦人”の言葉が働く女性のイメージと齟齬をきたし、更には婦人の婦や主婦の婦は“帚(ほうき)を持つ女”であって女性蔑視だとの牽強付会を唱える似非学者まで出現してきては徐々に衰頽する他なく、電化製品や既製服の誕生によってお掃除や裁縫に明け暮れて居た主婦の日常生活を大きく変貌させたこともあって余暇を働くことで生活の質を向上させたいと考えるようになった女性が少し宛増加し、昨今30歳代の3分の1が未婚女性となった時代の到来と共に“主婦”の言葉が読者に共感しなくなったことが原因ではなかったかと思います。
それが証拠に主婦の友を筆頭に婦人や主婦のネーミングを持つ4大誌の内86年から93年にかけて休刊した婦人倶楽部、主婦と生活、婦人生活は、内容より雑誌の題名によって淘汰されたとしか思えず、今や生き残っている雑誌は女性の言葉すら使われずレタスクラブやアンアン、オレンジページなど女性誌のタイトルとは異質なものに変貌していることに気付かされます。昨年だったかベストセラーにまでなった“さおだけ屋は何故潰れないのか”は公認会計士の書いた会計学の教科書のようなもので中身に忠実な題名では100部も売れれば良いとこでありましたが、出だしの一寸した小話をネーミングに使うことでベストセラーにまで変身できることを立証しましたから各出版社も中身は扨(さて)置き、書籍や雑誌の題名に神経を使う時代となりました。(;;)
“主婦の友”は創刊が大正の初期であり、当時は“女に学問は不要であり害あって益なし、女は男の従属物だ”とする男の都合の良い理窟が罷り通って居ましたから、都会の中流階級以上の方を除いては女性は未だ文盲の方が多く、女性をターゲットにした月刊誌の誕生は将に愕き以外何物でもありませんが、それでも大正6年の創刊号には新渡戸稲造の『夫の意気地なしを嘆く妻へ』と題した評論が掲載されていますから、平成の此の時代に発表されても充分に通用したのではなかったかと考えたものでありました。(^^)
私が生まれる1年前である1934年新年号は発行部数がナント!108万部に達したそうですが、この辺りの時代は憲政党初代総裁で内閣総理大臣であったライオン宰相こと浜口雄幸が31年に暗殺され人民不在、軍部中心の政治に変革されようとしていた経済不況の真っ直中でありましたし、明治から大正初期に生まれた進歩的な女性達が萎える男達に失望して女性蔑視の世界から脱却を志してのことではなかったでしようか。当時の主婦達が表面的には夫への絶対服従を粧いながらその実、夫が妻の掌(たなごころ)の内で自由に操られていたのは“主婦の友”の巡らした謀(はかりごと)であったのかも知れません(^^)。そして昨今主婦の絶対服従など笑い話となり、天下晴れて夫を自在に操れる世の到来となっては“主婦の友”の存在理由がなくなったのも皮肉なことでしたね(;;)
懐かしい昔を振り返るべく最終号となった“主婦の友”6月号を買い求め(恥ずかしいので女子職員に買って貰った)90年余の歴史を振り返って見ましたが、創刊以来の代表的な表紙が多く載せられており、表紙を飾った麗人が又懐かしくその時代を代表する美人女優総捲りであって“主婦の友”の表紙に登場することがその当時の一流女優の条件の感がありましたから表紙掲載の依頼を断った女優さんは誰一人居なかったのではないかと思い、淡島千景、八千草薫などの昔懐かしい笑顔に接し走馬燈のように巡る若かりし日の想い出に浸った一刻でありました。(^^)
女子プロツアーブリジストンレディースは我等が橫峯さくら選手今週もスコアが伸びず先週同様7位タイ(;;)に終りましたが、考えてみれば此の大会はさくら選手昨年の優勝者であり出場が義務付けられて(不出場は罰金とか(;;))いるため已むなくであったでしょう、来週はお休みしましょうね。男子プロは谷原選手の余裕の勝利でありましたが、石川遼くんよもやの3週連続の予選落ちでありギャラリー視聴者共にがた減りでしたからスポンサー泣かせでしたね。(;;)
一方大相撲では貧困の国ブルガリアの琴欧州が来日以来6年掛かって初優勝しました。来たときは何も話せずに身振り手振りの会話からのスタートだったそうですから日本流に謂えば丁稚奉公宛(さなが)らであったでしょうが、どんなに辛くても唯々両親への生活費を送るために兄弟子達の鉄拳にも堪えての懸命の土俵生活だったと思います、よく我慢できましたね。我が国でも戦前はどの子供も親兄弟の喜ぶ顔を瞼に浮かべて懸命に丁稚奉公に励んだものでしたよね。琴欧州関本当におめでとう(^0^)/