いろんなことのあった水無月(みなづき)も慌ただしく駆け足で遠くへ去り、文月(ふづき)を迎えることとなったが、何故か体感上一年の半分が過ぎ去ったとは到底思えず、古来漢書では「烏飛兎走」と謂うが、月日の経過の早さには唯々愕いてしまう、此もきっと歳のせいだろうな(;;)。40歳位までは一年が長くて年が変わるのが待ち遠しかったが喜寿を迎えてからの日々はまるでDVDを早送りしているようだ(;;)。

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庭の擬宝珠(ぎぼし)が綻び始めた。この花が寺社の欄干などの柱の上に付けられて居るあのお飾りに似ている処から擬宝珠と呼ばれるが、五重塔などの先端に飾られているのは「宝珠」だから、さしずめ擬(まがい)ものの「宝珠」であり、それで擬宝珠と名付けられたものだろう。とても丈夫な植物ですっかり忘れて居ても毎年梅雨に入ると咲いてくれる(^^)。この花は斑入りの葉が多いので(うちのは違うが)どことなく高貴な雰囲気を醸して居て、葉と花とセットで鑑賞するものであり花だけだと葱のようでまるで詰まらない。周囲が露草などの雑草でヤケにむさ苦しいが、この庭に生まれ育ってもうすぐ成虫になろうとして居るキリギリス達が鳥に見付からないための苦肉の防禦策なのだ。今日は雨なのでキリギリスも草葉の陰で休息していることだろう。
何時も古い話になって恐縮だが、父の代からの関与先で嘗て水産加工や畳藺草(いぐさ)を染める土の採掘をされて居た朝霧にあるA社のF社長は私より10歳年長の大正15年生まれで叡智の誉れ高く、理系の華とされ戦前我が国最高の教育機関である国立陸軍士官学校に進まれ昭和19年に卒業、直ちに姫路第三師団46部隊に配属し満州に進軍し終戦を迎えられ、帰国後家業に従事されて居た。才能豊かな方で財をなす能力にも秀でて居られたが、無念にもこと半ばにして16年前癌のため泉下の人となられたのだが、告別式の折ご自宅へ伺って何気なく拝見したら応接間の額縁に入った卒業証書の学校名が何故か神戸大学工学部となって居り、卒業年次は昭和23年3月であった。奇異に思いながらその儘忘れて居た処、先日10年近く前に没した作家の田中小実昌(東大哲学科中退)に就いて触れられた書籍を読み、アッ!と愕きF社長のことが想い出されたので私の独断と偏見に充ちた推理を皆様に聞いて頂きたいと思います。
大正14年生まれの田中小実昌は旧制福岡高校に入学する際、漢字の読み書きがまるでできなかったが、国語の答案は全部平仮名で書いて、それでも合格したとか…:-)、昭和19年には福岡高校を繰上げ卒業して赤紙で兵隊に取られ出征し、中国南京など各地を転戦して昭和22年帰国したら、当時復員軍人で高校を繰り上げ卒業した者に対して、お国から「何処の大学にでも入って良い」とお声が掛かったそうだ、其処で何となく東京大学文学部哲学科を希望したら無試験で入学できた多くの幸運児の一人となった(^^)。苦労も勉強もせずに入れた学校だったため有り難みが少なく、酒ばかり飲んで殆ど出席しなかったらその内大学を除籍されたそうだ(;;)。今の学生が聞いたらきっと勿体なくて震えが来て失神するに違いないが、大正の末期に生まれた青年と現代の青年の価値観の違いだろう、彼等には無残に引き裂かれた青春の代償としてこんな素晴らしい特権があったのだ!
田中小実昌は苦労して入って訳ではないから何も考えずに東大を中退できたのだろうが、東大中退の肩書きは「腐っても鯛」であって輝かしく、その後彼が作家として大成できたのはこの肩書きが大いに役だったに違いないと思ったものだ。
話を元に戻そう。具(つぶさ)な事情は分からないが、神戸大学の工学部が文理学部など他の5学部と共に実際に誕生したのはF社長の卒業証書の記載のある23年3月以後である昭和24年5月のことだ。当時A社のF氏は既に2代目として家業に従事され、土方のように毎日鶴嘴(つるはし)を振るって染土を採掘して居られたから、23年に未だできても居ない学校を卒業されるなど考えられず、ない学校に入学できたりその卒業証書があるなんて陸士卒ならではの荒業だったろう。熟々(つらつら)考えるに、終戦の混乱期が治まった昭和25年以降になって終戦の混乱期に学籍を失い、又学ぶべき学校を兵役のため犠牲にされた人達が東大への無試験入学などを暴露して糾弾し、お国に抗議したため恐らく内閣府が動き出し、戦時中「陸士」に在学した者を捜しだし「陸士」「海兵」は大学に準じた機関でもあるから今更違う大学へ行けとも言えないし、敗戦と共に消滅した「陸軍大学」「海軍大学」の卒面を渡すにもGHQの目が五月蠅いし、已むなく何処でも希望の大学の卒業免状が交付されることになったのではないかと推測した。きっと当時の文部省が内閣府に恫喝されて遡って架空の年月を記入した卒面を作成したにものだろう。何せ、戦争当時は所謂「陸士」と呼ばれた陸軍士官学校と「海兵」と呼ばれた海軍兵学校に入ることは東大に入るより遙かに難しかったと三島由紀夫の「金閣寺」にも書かれているから、東大を超える学校がないとなればお上も学校は何処でも良いと言わざるを得なかったろう。
因みに、三島由紀夫は19年に学習院高等科を首席で卒業し、宮中にて天皇陛下より恩賜の銀時計を拝受し東京帝国大学法学部に推薦入学した程の秀才だったが、身長、体重、体力、膂力に劣っていたため文武両道の「陸士」と「海兵」の入学は無念にも夢が果たせなかったものだろう(;;)。そのコンプレックスが後年「楯の会」を指揮して割腹自殺を遂げる遠因であったのかも知れないな。
戦前戦中、地方紙や中央新聞の地方欄には地元の人間が東大に合格しても記事にはならなかったが、陸士か海兵に合格したら必ず記事になるほどだったからその辺りからその凄さが分かるよな。そんな風潮であったから、F社長がお上の学士免状の申し出に対し、東大と返答すれば先ず東大の学士免状が貰えたのではなかったかと思われたが、さすれば一度位上京を求められたろうし、当時は交通事情も良くなく、生活に精一杯で交通費の問題も重大だし、今ほど学歴が重視される時代でもなかったし、深くも考えずにできたてホヤホヤの神戸大学にされたのではなかろうか(;;)。F社長とは仕事を離れてプライベートな会話をする機会がなかったのが返す返すも残念だが、社長の生前神戸大学の卒面にお目に掛かっていたら好奇心旺盛な私のことだから、事件の全貌を聞き出しF社長がこの件に関しどのような感慨を持って居られたか察することができたろうにと悔やまれてならない(;;)。
でも、今の若い人は我が国には戦前東大を超える学校が存在したなど私が言っても誰も信じはしないだろうな(;;)。まして無試験や推薦で東大に入れた者が居たなど、「冗談やろ」と笑い飛ばされるのがオチだろうが此は事実本当にあったことなんだぞ。
東大続きの話になるが、米ラスベガスで開催中のポーカー世界選手権で、東大出の日本人が初優勝を果たしたそうだ(^^)。東京都在住の木原直哉さんが先月末3日間の日程で行われたトーナメント戦に参戦し、419人の中から勝ち残った11人で優勝を争い、決勝の6人テーブルで米国人5人を退けた。優勝賞金は51万2029ドル(約4096万円)だったとか…。彼はポーカーの種目別の優勝者に贈られるブレスレットを笑顔で受け取ったそうだが、東大が世界の趨勢から取り残されて脱落の危機にある処をよくぞ頑張ってくれたなあ(^^)、彼は東大を出て現在プロのポーカー選手として世界を転戦中である異色の存在で、日本は囲碁では既に韓国中国の敵でなくなっているから、異国の文化であるポーカーでの勝利はせめて日本人の輝かしい誇りだ。彼は在学中から将棋部に属しバックギャモンで日本のトップクラスだったそうだから勝負勘は一流だったのだろう。
日本人はポーカーフェースと謂われ乍らもその利点が生かせず此まで世界で通用しなかったようだが、それはフェースの問題ではなく度胸と気迫の問題ではなかったか、木原さんは最終の勝負をきっとワンペアで勝ち取ったのかも知れないと思ったものだ(^^)。
先週の常用漢字表外読みの答え
小袖の(領)をつくろう。 (えり)でした。
今週の常用漢字表外読みの問題
諸国の(賦)を載せた船が入港した。
この問題も今回漢検準一級出題の一部です。此は辛うじて正解できました(^^)。