梅雨が明けて灼熱の夏が訪れた、暑い夜は50年前一世を風靡したニーノ ロータの気怠い「太陽がいっぱい」など聴きたくなる。ロンドンオリンピックも愈々始まったが、23時就寝厳守の小生には縁がない、期待の「なでしこ」も柳の下の泥鰌で今度は金メダルダメだろう(;;)。
先週は待ちに待ったキリギリスが雌雄10匹今年も金魚屋さんから届けられ庭では早速小気味よい鳴声を響かせている(^^)。昆虫の棲息環境悪化の中を世の不景気を受けお陰で今年も値上げされずに雄が700円雌が350円でありヤレヤレだった。聞けば雌を買う客も居るとか…^^、庭で産卵させ翌年孵化後夏に鳴かせるのを楽しみにしている人が私以外にも居ることを識って嬉しかった。毎朝事務所に来て庭のキリギリスの鳴き声を聞くと一遍に元気が出る、此の庭で生まれた奴も混じっているからきっと沢山卵を産んでくれることを期待して暑いけどエアコンを我慢して今日も一日頑張ろう(^^)。

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早朝菊水山からの明石大橋と淡路島の偉容であり、神戸の街にも未だ多くの森が残されていることに知って心が癒された。お馴染みのEさんから先週届けられたものです。Eさん又山に登れて良かったですね(^^)。

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先々週お知らせしたが、私の拙(つたな)い投稿文が目出度く25日毎日新聞全国版「みんなの広場」に掲載されたのでご覧下さい。拙文を読み返して居てふと考え付いたのだが、此の表現ではひょっとしたら毎日新聞社の担当者は私が此まで連続して12回不合格であると勘違いし、その報われることのない直向(ひたむ)きな努力を哀れに思って掲載を決められたのではなかろうかと思った(;;)。実際に不合格だったのは1回だけだが、毎日新聞の大いなる勘違いが原因で採用されたのなら、ま、それもいいか、幸運を素直に喜ぶべきだろうな(^^)。指を繰って計算したら私は7年半に亘って年二回宛きっちりと15回漢字検定を受け続けて居たのだから我乍ら結構しぶといなと呆れた^^。
早速投稿紙面を愚娘に見せたら、案の定「これを読んだ人はお父さんが12回も不合格なのかと思わへんやろか」と言ったから、私は「しょぼんとした小母さんの心情を思いやって言った言葉やから、そう受け取られても構へんよ」と返したのだった。
掲載当日、漢字検定協会と何時もの牴牾(もど)かしいやりとりも何とか上手く行き、かかりつけだったIクリニックを連絡場所とすることで、投稿文のヒロインである女性秋山さんとも25日再会でき毎日新聞をお渡しすることができてホッとした^^。Iクリニックの新木さんいろいろと有難うm(_ _)m。
「粗にして野(や)だが卑ではない」一昔前の方だが皆様は石田禮助をご存じだろうか、国鉄総裁在任中一度も俸給を私せず、全額国家に返納した清廉潔白の人であるが、昭和38年総裁就任のため国会初登院での就任挨拶のとき、謂わば国鉄の株主とも言える運輸族と呼ばれるベテラン議員達を前に、辺りを睥睨(へいげい)して「諸君」と言ったから議員達は皆口をポカンと開けて愕いた。「私は嘘は絶対に吐かぬが知らぬことは知らぬと言うからご勘弁願いたい」その後で登場したのが自分の性格を評し世に識られた上記の言葉であり余りにも有名だ(^^)。「私は粗野な性格だが決して心は卑しくない」と言われたのだと思う。そしてその次に彼の口から飛び出した言葉を聞いて議員達は再び腰が抜けるほど愕いた。「国鉄が今日のような状態になったのは諸君達に責任がある!」先生なんて言葉は何処からも出なかった、諸君なのだ、そうか、それまで国会で其処まで宣う大久保彦左衛門は誰一人居なかったのだ(;;)。
国鉄総裁に民間から初めて就任したのは、昭和16年まで三井物産の社長をしていた石田禮助であったが、財界の表舞台から退いて既に20年以上が経過しているから議員達は当時の総理大臣池田勇人が耄碌した過去の人を名誉職のつもりで選んだ人選だから外部へのお飾りには丁度良いか、などと高を括って居たのだろうが、実は、どっこいこの石田禮助が総裁になったのは他ならぬ経団連の会長を12年も務めて「財界総理」と呼ばれた石坂泰三のたっての頼みを引き受けてのものであり、石坂は石田が「野心も私心もない、あるのは素心だけ」の人間であることを充分に知って居たからだ。その上石田はそれまでの7年間をときの国鉄総裁十河信二の片腕となる監査委員長として、辣腕を奮い、例えば人事についてなら東大法学部出のキャリア組ばかりが超特急コースで出世し、後は全員鈍行を強いられた人事に反発し、「野(や)に遺賢は居る、ノンキャリを抜擢せよ、それで国鉄内に新しい空気が通る」と繰り返して提案して実行に移したことや、国鉄から日本銀行に預けられた金が40億円まで1銭も利子が付かぬ悪弊に抗議し大蔵省から47億円も金利をもぎ取ったことなど監査委員長が名誉職でないことを示し、その実績は枚挙に遑(いとま)がない。
因みに「野(や)に遺賢なし」とは出典が「書経」であり、賢者はすべて朝廷に任用されて、民間に埋もれている賢人が居ないことを言うが、此は孔子、孟子の居た頃の中国の話であって、現代の我が国ではこんな言葉は使えず、戦後、詰め込み丸暗記型偏差値重視の教育制度では立派な人材を掘り起こすことなどできる筈もなく、「金剛石も磨かずば…」であり「野(や)に遺賢あり」が正しいと謂うのが彼の持論だ。
石田禮助は東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後三井物産に入社し、30年間に日本に居たのは2年間だけであり世界中を巡った国際人だった。大豆や錫(すず)の取引で巨利を得るなど商才に長けており、僅か49歳で取締役になり55歳で社長になった切れ者だったが、彼が昭和38年に当時の総理池田勇人に三顧の礼を以て請われ78歳の老齢であり乍ら民間人初めての国鉄総裁に就任して発揮した数々の功績は誰もが目を見張るものだった。彼の凄いところはキャリアの官僚閥と謂う怪物の圧力には全く屈することなく、敢えて学歴年功を問わずに3階級5階級昇進の道を開いたことなど将に胸の透くような快男児だった。小学校しか出ていない志免炭鉱所長が難しい労働問題を解決したとき「苦労させたから一番良いところへ持ってきてやれ」と言ってすぐさま仙台鉄道管理局長に、次に東京鉄道管理局長に、更には常務理事にまで登用したから、警察で言えば駅前交番の巡査部長が一足飛びに警視庁の副総監にでもなったに等しいから愕きだ。下に仕えた東大法学部出のキャリアの渋い顔が見たかったなあ(^^)。
彼は映画を見るのをとても好んだが特に好きだったのは勝新太郎の「座頭市」シリーズであり、似た筋書きでも「水戸黄門」は嫌いだったそうだ。何故なら後で印籠を持ち出して威張るのが面白くないと謂うのが彼の理由であり、威張るのも又「卑」であって、権力を極端に嫌った彼の性格がよく分かる。一方座頭市は「粗にして野(や)だが卑ではない」の典型だったのだろう(^^)。目の前にはマンモスのように巨大な労働組合が立ちはだかり、初代下山総裁が常磐線で轢死体発見では、財界人ならずとも誰もが国鉄に対し腰が引けるのは当然だが、石田禮助は自分の老後は「パブリックサービス」だと宣って平然と進んで国鉄総裁の就任を受諾し、その数々の英断やエピソードについては皆様に一度暑さ凌ぎに城山三郎の小説『石田禮助の生涯「粗にして野だが卑ではない」』を読まれることをお勧めしたい。今日はそのさわりを少しだけご紹介させて頂いた。
先週の常用漢字表外読みの答え
盥(たらい)が(燥ぐ) (はしゃぐ)でした。(はしゃぐ)とは水分がなくなり、乾燥することです。
今週の常用漢字表外読みの問題
此の味は(堪え)られない。
先々週の問題である「心張り棒を支う」(かう)の答が違うものに変わっていました(;;)。
申し訳ありません。謹んでお詫びしますm(_ _)m。