愈々年の瀬を迎えて気忙しくなりましたね、私どもは恒例の年末調整事務で大童ですが、円安景気で大企業は儲かっても零細企業にまでお零れは来ずに物価高ばかりに喘ぐお得意先の年の瀬を見るのはとても辛いです(;;)。

先月行われた岩手盛岡シティマラソンで往年の名マラソンランナーである瀬古利彦さんが、女子マラソンが正式に採用された1984年ロサンゼルス五輪代表で岩手県大船渡市出身の佐々木七恵さんの功績を発信されました^^。彼女の53歳での急逝から14年が経ち、記憶の風化が懸念されますが、ともに五輪を走った瀬古さんは「今の日本の女子マラソンがあるのは佐々木七恵さんのおかげです。その人が岩手に居たことを忘れないで…」と訴えました(;;)。昭和31年生まれの彼女は日本体育大学を卒業後、故郷の岩手で教員生活を送りながらマラソンに挑戦し、瀬古利彦を育てたエスビー食品陸上部監督中村清の指導を仰ぐために26歳で単身上京されましたが、チームの同僚だった瀬古さんは「教員を辞め、現在とはまるで異なった男社会であるマラソンの世界に女の子が独りでやって来て凄いなあと思った(゜o゜;。本当にマラソンが好きで頑張り屋だった。男社会の中を若い女性がよく独りで環境の変化に耐えられものだ」と述懐されて居ます^^。あの当時の日本では佐々木七恵さんの東北弁での言葉の訛(なまり)がメチャ強くて到底日本語と思えず彼女の言葉がちょっとやそっと通じるものではなくて意思疎通が大変だったそうです(゜o゜;/。 彼女は男子に混じっての猛練習を熟(こな)した結果、念願が叶(かな)いロサンゼルス五輪出場を果たし岩手から勇躍外国に出た彼女は厳しい暑さの中を19位で走り切り、日本女子マラソン歴史の第一歩を刻んだのでした^^。ともに出走し途中棄権したスポーツジャーナリストの増田明美は講演会で岩手を訪れる度に「女子マラソンのパイオニアと言ったら私じゃなくて佐々木七恵さん」と強調されて居られます^0^/。そして彼女は1983年11月の東京国際女子マラソンに、ロサンゼルス五輪の女子マラソン代表(このロス五輪から女子マラソンが正式種目となる)を目指して出場し、このレースには9月に再び日本最高記録を出した増田明美もエントリーしており、マラソンでの2人の初対決が期待されましたが増田明美は直前に足を痛めて欠場し、佐々木七重は先頭に食い下がる我慢のレースからスパートをかけて、結果国内の国際女子マラソン大会で日本人として初優勝を果たし、念願だったロス五輪代表の座を掴みました(^0^)/。その粘り強く個性溢れる独特の走り方には、当時空前のヒットをしたNHK連続テレビに因んで「おしん走法」のあだ名も付けられた位個性溢れるものでありました^^。そして1984年1月の全国都道府県対抗女子駅伝に岩手県チームのアンカーで出場され17人抜きを演じ、この記録は2007年まで23年間破られることはなかったのです。彼女は独特の岩手弁で人付き合いが得意でない私生活であったため、引退後中村監督の紹介で実直な自衛官永田陽美一等陸尉を紹介されて結婚されましたが、お仲人は加藤紘一防衛庁長官に仲人を依頼され、佐々木七恵さんと婚約者の一等陸尉は幸福に暮らされましたが「佳人薄命」の諺は裏切らずに彼女は若くして癌に冒され53歳で冥府に旅立たれました。合掌(;;)。

佐々木さんの後を継いだ日本女子マラソン勢は1992年バルセロナ五輪から4大会連続でメダルを獲得し、2000年シドニーの高橋尚子04年アテネの野口みずきが連続「金」に輝く隆盛を誇りましたが全ての原点は男子に混じって独り血の滲む切磋琢磨の末、世界戦にて日の丸の旗を掲げた佐々木七重選手その人でありました^^。

此れ迄岸田総理が安倍総理に義理立てして大切に扱ってきた安倍派の議員達がパーティー券収入の超過分を懐に入れていたことが発覚し、現職大臣まで連座している様(さま)に国民は呆れ果てて居ますが、裏金を使わなければ棲んで行けない政治の世界って悍(おぞ)ましくてなりません。報道によると、西村大臣他安倍派の議員はスポンサー企業に1枚2万円のパーティー券を大量に購入させて、実際には企業からは誰も来ずにホテルの会議室で小規模の会合を開催し、10人足らずの経産省職員を動員して表向きを繕っていたそうですからこれってどう見ても詐欺じゃないんですか🤬?検察庁が動き出しましたが彼らも公僕の一人であって政治家の力で昇進が決まることだし、手加減するだろうから議員達の懲罰については先ず期待できないね(;;)。国民不在だね🤬。

 

先週の読めそうで読めない字  着物の長(たけ)

今週の読めそうで読めない字   (螺子