あじさい

5月半ばなのに新緑なんかとっくに通り越して初夏に近い毎日だ。五月のシンボル躑躅(つつじ)の花などとっくに枯れかかって風情がないね、何時もより一月早く紫陽花が咲き出して居るから今年も随分暑くなるんだろうな(;;)。
先週愚娘から妻に送られた母の日の贈り物は定番のカーネーションでなく紫陽花の鉢植えだった。とても綺麗な色だから花が終わったら露地植えにしたいと妻が言いだしたが妻にその趣味がないから結局私が手入れすることになりそうだ(;;)。

綴方教室

先月15日、日経夕刊の「文学周遊」にて豊田正子著「綴方教室」が紹介されたのを読みメチャ懐かしかった^^。戦争前のいろんなことが思い出され昭和59年の復刻版をアマゾンで購入した。確か小学生の後半に読んだ本だが、あまりに昔なので内容は殆ど記憶に残って居ない、全く新しい本を読む感触だった。豊田さんは私より一回り位上の方で、私が生まれる少し前の昭和の初期から日本中を掩っていた大恐慌が全国に未曾有の失業者を溢れさせた頃小学生であって、貧しさに翻弄されながらも東京下町のブリキ工の父を持つ一家の生活を長女である彼女が幼い頃から丹念に緻密に書き綴り、鈴木三重吉の童話雑誌「赤い鳥」の懸賞に当選し、更に昭和10年代になり全国的にベストセラーになった作文集だ。
此の本の読後感だが、幼い少女なのに今ならプライバシーとされる生活のごく細かい襞(ひだ)まで時系列で細部にわたって克明に記録し、ありの儘を飾らず立体的に筆にされているのに殆(ほとほと)感心した。彼女は貧乏だった境遇にもめげずに空腹にも耐えていじけずに、一所懸命その日その日を生きている様が私の少年時代を思い出させ涙を誘う。恐らく彼女は子どものときから抜群に聡明で抜群に記憶力の強い方だったんだろうと思った。
彼女はブリキ職人である酒好きの父親と勝ち気でしっかり者だが亭主の失業を不満として亭主の友人と不貞を働く母親の間で悩みながらも弟達の世話をし、小学校在学中は放課後夜の9時まで縫製工場で働き、卒業後も女工を継続して家計を助け乍ら寸暇を縫って作文を書かれた苦労は、我々戦中派の人間をもってしても想像を絶するものがある。余程書くことが好きだったか或いは書くことで苦しい生活(なりわい)への鬱憤を晴らして居られたのではないか。彼女は学校卒業後芸者に売られる筈だったが写真を送ったら器量が足りぬと断られ(彼女は健康そうでとても良い顔なのだが当時の美人は竹久夢二描く瓜実顔の不健康派が主流だったのかも知れぬ)ずっと赤貧の生活を送っていたことは女工の給与が一日遅れたためその夜食べる米がなく、蒸したさつまいも1本を姉弟3人で分けて食べ空腹を凌いだことなどが書かれて居るから、貧乏の度合いなんかも私の育った昭和二桁代とは桁外れに違って酷かったんだろう。

豊田正子_

手に入れた「綴方教室」の表紙を捲ると「豊田正子」と署名があったことが今日の話題です。本物かどうか確かめたくてネットなどで本人の原稿をみるとどうやら直筆と思えるのだが、署名の個所がなくてはっきりせず、考えた末出版社である「木鶏社」に電話してサイン本入手の経緯を話したら、「担当者に替わります」と言われ年輩の女性の方が出て来られ彼女から字の特長など教えて頂き筆体など話したら、どうやら直筆らしいので鑑定して頂くため「写メで送ります」などと話してたら、先方から「手許に署名入りの原稿があるのでコピーをお送りしますが…」と言われ喜んで申し出に応じた。先週届いた原稿を見ると紛いもなく同じ字だった^^。私の手に入れた本は彼女が知人に送ったものか或いはサイン会で書かれたものだったんだろう。
豊田さんは4年前に88歳で亡くなられたが、送って頂いた原稿のコピーは30年前に書かれたものだ、その原稿中に木鶏社の編集者伊藤紀子さんが登場する、その編集者が私からの電話を受けられた方であることは同封のお手紙に記されて居る通りだから偶然だ。見知らぬ者からの厚かましい電話でもちゃんと受け答えして頂けたのは豊田さんが亡くなられた今でも彼女が豊田正子の「編集者」をされて居た証(あかし)なんだなと感激した。紀子さんだからひょっとしたら私より5歳年下の昭和15年生まれではあるまいか、(違っていたら伊藤さんゴメンm(_ _)m。)この年は紀元2千6百年で全国的に「紀子ブーム」だったことは私が若い頃ミシンのセールスをしていた折、顧客となりそうな若い女性を捜すために知人に貸して頂いたY高校の昭和33年卒業生名簿が「紀子」だらけだったことでよく憶えている^^。あの住所入りの名簿は訪問販売に絶大な効果を発揮したから、個人情報が秘匿された昨今ベネッセの顧客情報が莫大な額で売買されたことは容易に想像できるね。

話はさておき、豊田さんの原稿を読んで居て旧字体と常用漢字が混在しているのに時代の移り変わりを痛感した、昭和二桁の私がそうだから、大正生まれの方は20数年間慣れ親しんだ旧字体から戦後遽しく常用漢字への変更を余儀なくされたことに理不尽な思いが強く容易に常用漢字に馴染まれなかったと思うから編集者の校正も大変だったろうな。
私は幼い頃の郷愁に深く浸るため「粘土のお面」「おゆき」など豊田さんの作品を数冊購入して読んで見た。貴重本の「芽ばえ」も定価の12倍強で手に入れた^^。本は重いけど字が大きいので年寄りにはラクだ^^。「粘土のお面」は豊田さんが成長した10代後半の作品だから「綴方教室」より出色の出来だ。中でも短編の「大晦日」は此の夜一文無しのため年越しの金を借りに除夜の鐘の前に文盲の母親の口述を学校の読方帳を千切って書かされ、仕事先のお宅に行き20円(今の10万円位)借りに行かされる下りは圧巻だ。手紙の出だしが「はいけ、みなさまおかわりありませんか」なんて、何でこの子がこんなことまで…と悲しくて涙がとまらず困った、「はいけ」は勿論「拝啓」のことだが、字を耳から覚えた文盲の母親は勿論当時小学2年生の彼女には書けない字だ、「おとうさんが怪我をして働けなくなった」とウソを吐いて少女にお金を借りさせようと企むお母さんも強(したた)かだったな。だけど2年生の女の子に借金の手紙を書かせて独りで借りに行かすなど、如何に相手の憐憫を誘う手段か知らぬが今なら考えられないことだ、凄い母親だね、イヤイヤ書かされた手紙を持って知らぬ家にお金を借りに訪ねて行く2年生の女の子など今時居ないよな、彼女は生活のためには母親に服従する覚悟を決めて居たんだ(゚ロ゚)。と言うより当時は親の命令に服従することが当たり前で、今の子ども達が過保護に過ぎてあまりにも親の役に立たな過ぎるんだろう、そうだ、思い出した!私の幼い頃は学校から帰ると水汲みやら風呂焚きやら弟を負ぶってのお使いなどあらゆる家の用事をさせられたが、親にご飯を食べさせて貰ってるので当然だと思って居た。勉強したくても戦時中は紙がなかったから、今の子どものように「勉強せー」なんて言われたことがなくて良かったな^^。そのため大学受験でメチャ苦労したけど…(;;)。

苦労して入った大学も入学後は囲碁に没頭して学業に身が入らず、挙げ句当時は何より恐れていた卒業試験の単位が足らずに留年しそうになった悪夢を未だ80歳になっても見て夜中に冷や汗と共に飛び起きることが再々だ。留年が決まれば父に「この穀潰しめ…」と家から叩き出される恐怖心からだ、昔の親は絶対権力者だったがそれは「長幼の序」として当然だったのだ。幸いにも留年せず卒業できたが留年して居たら私の人生は大きく変わって居たに違いないと思う。親は怖かった!
それに引き換え「ご飯全部食べたらゲーム買って上げるからね」などと子どもの我が儘に追従(ついしょう)する情けない親が減らない今の我が国には最早未来はないんだろうな(>_<)。

今夜のニュースは大阪市の住民投票一色だろうな、橋下さんの詭弁に乗せられる大阪人ではないと思うけど…、

先週の書けないけど読みたい漢字
遽(あわただ)しい朝のひととき

今週の書けないけど読みたい漢字
雨が(歇)む