ヘンリーマンシーニの“ひまわり”を聴いていたのがつい先日と思って居たら、マントバーニーの“セプテンバーソングを”聴けるのも後1週間足らずとなったが、月日の経過の早さに愕くと共に此から段々と夜が長くなって行くのかと思うと目の良くない小生は憂鬱でならない(;;)。
計算通り彼岸花はお彼岸に咲いた。彼女達の持つ体内時計の正確さには唯々感心するばかりだ。
何時も乍ら昔日のことで恐縮だが齢(よわい)を重ねると昨日のことより遠い昔が思い出されてならない。以前にも触れたことがあったが、今は去る50数年前のこと学校卒業後、暫くして身の不始末から親に勘当され生活せねばならず、私は河内の八尾で基本給なしミシンの歩合セールスをしていた。セールスなど柄でもなかったが他に保証人なしに使ってくれる処などなく已むなくの仕儀であった。そのときに逢着した私にとって実に得難い体験をお聞かせしたいと思う。
私は布施や八尾周辺の住宅を訪問してミシンの販売(と言っても当時は鍋底景気と謂われた貧しい時代であり毎月500円の積み立てをして36回掛けたら21000円の足踏みミシンが手に入る仕組み)を慫慂して居たが、ランダムに家庭訪問してもピンポンなどない時代でもあり押売か酷いときは泥棒のように扱われて効率悪く、100軒訪ねて見込み客がやっと2-3人の有様であり、一計を案じて出入りしていた碁会所の知人から近くにあった八尾高校の卒業生名簿を借り(当時は個人情報など糞喰らえだった)近年に卒業した女性宅を訪ねてはお母さんなどにミシンの必要性を説くと、当時は花嫁道具にミシンは欠かせなかったため結構契約に漕ぎ着ける確率が高かった。その頃は卒業してお勤めなどし乍ら社会経験を身につけ2-3年すればお嫁に行くのが当たり前の時代でもあり25歳にもなって家に居ると近所から白い目で見られて居た堪らず、見合い結婚などで家を出て行くのが常であったが、それでも直ぐに子が生まれ別れたなど聞いたこともなく男も女もお互い20代半ばでの結婚を己が運命(さだめ)と納得して居たのだろう(;;)。
名簿で探した卒業生も大きな家は何処も警戒心が強くて月掛けミシン話などてんで耳を傾けて貰えず押売り同様に追い払われるのがオチであり専ら路地裏に住む卒業生を探し訪ねて居たが、9尺2間の長屋の小母さん達の親切はつくづく身に沁みた。家が貧しいのは玄関から奥を見通せば丸分かりだがそんな家に限って見知らぬ私のような者でも引き留めて“兄ちゃん暑いやろ、おブーでも飲んで行き…”と勧めてくれて玄関先で世間話のお相手をし、お饅頭など頂戴したりしていた(^^)。心易くなると途中から話の仲間入りした近所の小母さんまで年頃の娘を持つ友人の処へ連れて行ってくれて契約に漕ぎ着けたこともあり、彼女達は貧しくてもとても親切で人情味が厚かったから長屋の人脈は結構貴重だった。お金持ち程渋くて警戒心が強く相手を見下し、貧乏人の方がお金に執着がなく人情味溢れていたのには其れまで己が持っていた価値観世界観とまるで異なり愕いたものだ。お金に執着しないから貧乏人になった訳でもなかろうに守るべき財産がないと人間固有の素直さに戻れるのではないかと考えたものだ。
その頃駅前の商店街で肉屋さんをしているNさんに出会った。きっかけは私が行きつけの小さな碁会所で知り合ったのだが、彼は30歳位の青年で店の後よく碁を打ちに来ていた。棋力は2段位だったが、絶えず教えを請われて居た、然し私には他にも弟子らしいのが大勢居たのでそうそうNさんとばかり打つ訳にも行かず、その上Nさんの碁は旦那碁で教えても先ず強くならない碁だと分かって居たので困っていた処、或る日彼から店が休みである月二回の水曜日に自宅で打って貰えないかと頼まれた。仕事があるからと断ったが彼は私がミシンのセールスであることを知っており、村には沢山年頃の娘が居るから母に頼んで何とかすると言ってミシンの契約を一回に一つ貰う条件で半日碁のお相手をすることになったが、一契約で毎月の集金が滞らない限り8ケ月間に渉って計2000円の歩合が貰えたから当時の日当としては破格のものだった(^^)。Nさんの通勤用バイクホンダドリームの後部座席に乗せられて連れて行かれた場所は大和川の畔(ほとり)にある羽曳野と謂う村(今は市になって居る)の中にあって牛を屠(ほふ)る地域であり、Nさんは所謂被差別部落の住民で其処の長だった。肉屋さんだからその辺は分かりそうなものだったがうっかりして行くまで気付かなかった(;;)。家は新しい木と青い畳の薫りが充満する新築の大邸宅だったが、家の中が乱雑で家具など殆ど見当たらず座敷机すらなく食事も畳の上に直に置かれ、碁盤すら折り畳みの安物だったから家以外は9尺2間長屋の方がマシであり、こんな立派な家に住みながら何で…?と、同和部落の人達の平衡感覚に戸惑い、住井すえ著“橋のない川”に出てくる家の情景など想い出したものだ(;;)。碁を打っている間に何時も作業着姿のNさんのお母さんが私の渡した契約書の用紙を手に何処かに出掛けて行き、私が帰る頃にはちゃんと判子の付いた契約書と初回金の500円が貰えたものだが500円はお母さんの自腹ではあるまいかと思ったものだ。契約して頂いた方が何処の誰とも知らず礼も言えない儘都合10回位行っただろうか。囲碁は強い者と漫然と打ったからと謂って決して強くなるものでもなく、Nさんの向学心がイマイチであり、昼食付き半日2000円は大金だったが強くならない者に教えるのも疲れて辞めにしたが、会社では何も理由を言わなかったので羽曳野地区担当の集金人に“よく彼処で契約が取れたなあ”と目を丸くされた。実はあの地域は一般人が足を踏み入れできない場所だったとか…(;;)、集金人も苦労されたのではないかと思ったが、集金ができなかったなど聞かなかったからNさんお母さんの根回しがしっかりと効いていたのだろうな。
又、何時だったかひよんなことから、布施の市場の喫茶店でウエトレスをして居た中学を出たばかりと思える細そりした少女からミシンを買いたいと500円預かり、親の許可と判子を貰いにその子の家に一緒に行ったら彼女の一家は在日朝鮮人で路地奥の犬走りを辿った迷路の先にある窓もない倉庫の土間に筵(むしろ)を敷いて親子6人程が犇(ひし)めいて住んで居た。オモニから“カイコさんうちミシン買う余裕ない、金返して”と哀願され500円の返却を迫られ彼女が不愍だったので500円を返した(;;)。後で考えると“カイコさん”は外交員さんのことで向こうで生まれ育った人は濁音が発音できないことに気付いた。私が狭い路地を帰るとき“ごめん”と泣きそうな顔で私を悲しげに見送った細い少女の眼差しが瞼に残って未だ忘れない(;;)あの人達は同和部落の人同様日本人の半分の日当で苦しい生活を必死に生きていたのだが、その後金日成の悪巧みに誘われバラ色の人生を夢見て北朝鮮に帰って行ったが夢は無残にも打ち砕かれ、あの少女達は今どんな生活をしているのだろうか、きっと日本での生活を望郷の思いで偲んで居ることだろう、私にはとても悲しい思い出だ(;;)。
今思えば若気の至りとは謂え、勘当に家出は母を泣かせた親不幸な出来事ではあったが、私はこの時期生まれてこの方経験したことのない、金で買うことのできぬ貴重な体験と見知らぬ人達と優しく心を接した交わりが、その後今日までの私の人生に如何に大きな影響を及ぼしたか私の拙(つたな)い語彙では到底言葉にすることができない。
彼や此や最近良きも悪きも遠い昔のことが想い出されてならないがきっと私もそろそろ冥府への旅立ちが近づいたのだろうな(;;)。
先週の常用漢字表外読みの答え
彼は沼の畔(ほとり)に佇んだ。
来週の常用漢字表外読みの問題
木々が(参差)として茂っている。