いつもの月より短い二月も明日でお終いとなりますが、うちの司令塔である愚息の帰還が思ったより早くて全員が安堵し申告事務が順調に進んでいます^^。あと半月どうか誰も風邪を引かぬよう体調に留意して頑張りたいと思います。北京オリンピックも抜き打ち検査とかいろいろあったけど日本がスケートの高木選手を筆頭に多くのメダルを獲得して無事終了しました。気温が氷点下17度とか…(@@)、選手の皆様ご苦労さまでした。

先週「ああ野麦峠(ある製糸工女哀史)」を読みました。再読は40年振りかと思いましたが、私の当時の年齢や価値観など現在と随分変わったこともあって全く違った気持ちで読了できました。明治の初期から大正昭和に掛けて飛騨高山在貧農の娘たちを巡る悲しい実話ですが、この地方のお百姓は苦労して作った焼き畑で採れた米を地主に渡し、小作料の米は食べずに全額金に替え、主食は粟や稗を常食と言う貧しい地域の人たちばかり、不作となっては田圃を地主に返して離散する者も少なくなく明日は我が身と周辺の貧農では女児を三才で子守に出して働かせ相手の子供が子守と同じ三才であることも稀ではなかったそうです(;;)。そして娘が小学校を卒業(当時4年生)すると「口減らし」と年の暮れに持ち帰る現金をあてにして明治維新当時信濃国鈴木村にて生糸の輸出で外貨を獲得のため勃興した製糸工場(通称キカヤ)へ働きに行かせました。子ども達は健気にも苦しい生活に喘ぐ両親に報いようと村の同年輩である仲間数人と道案内であるキカヤの若者に先導されて髪は桃割れ、赤い腰巻きに草鞋履きで身の回りのものを袈裟に背負い、両親に別れを告げて早朝3時に出立する姿はいじらしいものだったと謂われています。夕刻には海抜1670mの野麦峠を越えて歩む数知れぬ峠道の連続は慣れない者には果てしなく遠く、地図の上で直線80kmであっても実際に歩く山道は遠周りとなり幾つもの峠のアップダウンを経て島々、松本、塩尻を経由し信濃国諏訪鈴木村(現在の岡谷市)に到着するには7日間45里(180km)の山歩きであって幼い子どもの足では大変だったと思われます。野麦峠は岐阜県高山と長野県の県境に位置し、南に木曽岳、北に乗鞍岳、遠くに焼岳に穂高岳が一望される飛騨と信濃の国を結ぶ鎌倉街道、江戸街道とよばれ、古くから重要な路線の峠であり、明治時代には日本の製糸産業を支えた飛騨の女工たちの交通路として賑わい、そこから此の本が生まれてベストセラーとなり映画は大ヒットとなりました。明治の終わりに高山鉄道が開通してから汽車で下呂まで出て付知峠を越えて美濃坂下に出て中央線で岡谷に向かったのでした。野麦峠も今は街道の賑わいも忘れ去られましたが昔を偲んで静かで自然の美しいこの場所を訪れる人達が少なからず居られるそうです。

明治5年(1872)、明治政府はフランス式繰糸機を輸入して官営富岡製糸場で生糸の操業を始めたことは皆様ご存知の通りです。近代日本製糸業の夜明けでありました。然しその当時はフランス人の技師が当時の太宰大臣より高い月額700円の給与を取っていたため、コストが高くついて大変でしたが、数年後、日本人の知恵は凄く諏訪の平野村(現岡谷市)で武居代次郎なる人が岡谷独自の繭から糸を紡ぐ「諏訪式繰糸機」を生み出しました^^。これはイタリア式とフランス式を折衷した画期的な機械でコンパクトで性能が良く、低価格で高品質の生糸が生産できました。そしてこの機械はあっという間に全国に広まり、日本が世界一の輸出生糸生産国になって外貨を獲得し、我が国が諸外国と肩を並べるまでに成長する要因となりました。日清戦争や日露戦争で我が国が最強の軍艦を率いて勝利し、世界を驚嘆させることができたのも「キカイ道楽」と呼ばれた情熱と創意工夫の人武居代次郎のものづくり精神から作られた「諏訪式繰糸機」により多くの生糸が廉価で生産され外貨獲得に拠って得られた戦艦射撃砲によるものであることは言うまでもありません。この機械は岡谷の宝物と呼ばれて、今も各地現役で活躍しています。その製糸工場で働く女性は北海道を始め全国各地から集められましたが、前述の聳える山脈西にある飛騨地方高山在の出稼ぎ娘が多く、当時は4年生で小学校を卒業する10歳で故郷飛騨を見下ろせる野麦峠を後にして島々宿に迂回し、松本に出て塩尻から諏訪へと草鞋を履き潰しながら7日間歩き通しての少女たちの強行軍は今なら想像もつかぬことでありましたが、幼い頃から田圃や水汲み仕事で鍛えた当時の女児の足は強かったなあとつくづく思いました。彼女達は只管働いて年の暮れにお金を持ち帰り両親の喜ぶ顔を見たさに二度三度と145キロの峠越えに挑むのでありました。工女の一人吉野すえさんの回顧談をご紹介しましょう。「仕事はノルマ制でそれは苦しいもので御座いました。いっそ諏訪湖へ飛び込んで死んでしまおうと思ったこと数え切れず、それでも暮れに野麦峠から故郷飛騨を眺めて涙を流し、峠を越えて家に帰り一年働いて貰った「1円」を母に渡すと母はそのお金を抱きしめて「此れで年が越せる」と声を上げて泣き、病いの父は起き上がって「すえ、ご苦労だったなあ」と言って手を合わせて何度も頭を下げて礼を言い、お金を一升マスに入れて神棚に供えお灯明を上げて明るいお年とりをしました。あのときの両親の顔を思い出すと工場でどんなに苦しくてもワシらは我慢できたのです」                     来週に続く…

遂にウクライナロシアが侵入し首都キエフに戦火が起こり巷ではプーチンに対する非難の声が轟々ですが、一方で先日まであれだけ意気込んでいたバイデンさんがいざ鎌倉となると何もできずにまるで対岸の火事を見る如き態度は看過できません(;;)、世界は何れ滅んで理不尽な行為を続ける悪魔であるロシアと世界一の物財を誇る中国共産党のものになるのでしょうか💢。

先週の読めそうで読めない字  昔は文盲(もんもう)の人が多かった

今週の読めそうで読めない字   彼女は(只管)糸紡ぎに励んだ