久し振りに雨が降って暖かい春の訪れかと思える穏やかな一週間でしたね。このまま春が来ればいいのですがお彼岸までにもう一度「寒の戻り」が訪れるのが通例です(;;)。事務所では3月15日の確定申告期限を間近に迎えて土日も最後のラストスパートですが、うちの司令塔の3週間不在のブランクをも全員力を併せて奮励努力して奪い返し、申告も後数件となり間もなく無事ゴールに辿り着くことができそうです^^。

「あゝ野麦峠」今日は前回に続き飛騨から険しい峠を幾つも越えて信州に向かった飛騨の貧しい工女達の回顧談などをお伝えしましょう。「2年目から峠を越すときはキカヤの男衆が付いてくれて越しました。雨具にはキゴザ(藺草「いぐさ」で編んだゴザ)を背負って行きました。今考えるとザマではない、ワハハハ^^、銭なんか貰わなかったね、ただ食べさせて貰えるだけせ」。「3つのときに子守に行き学校は知らね。10歳の時のとき野麦峠を越えて諏訪湖に出た。2月の野麦峠を皆素草鞋で越えたが、足が凍って泣いて越した。初めの年は1年働いても3尺のモス切れ1枚貰った」。「ワシラは紺股引に素草鞋で峠を越した。あれはワシが11の年(当時は満年齢でなく数え年でした)だったがその頃は雪のときは通らなかった。1年働いて1円貰って帰ったことを覚えている。昔は口減らしに往くのだから銭のことで不平はなかった。米の飯が食べられるので家に居れば粟や稗(ひえ)しか食えないから遥かに良かった。」米のご飯が食べられれば仕事の対価として充分だなんて美酒飽食に馴れた私達には考えさせられることです。飛騨の貧農は誰も子沢山で作った米を地主に取られ、高い利息で借米をして居たので借金が増える一方でした。あの頃は取り上げ婆さんしか居なかったけど、大気汚染など全く無かったせいか、高山でも何処でも嫁は10人位子供を生みました。それにしても人工授精とか保険の効かない高価な不妊治療に命を尽くす現代の夫婦と当時の夫婦と何処がどう異なっていたのか不思議でなりません(;;)。現代はあらゆる交通手段から垂れ流されるCO2ばかりでなく、食物にも化学肥料や有害防腐剤が満載され、海の魚も汚染が酷く、文明の発達は人類の滅亡を齎す不妊原因を増加さして居るに違いありません。あの当時は生まれた子供を半分疫病で亡くしても食い扶持が足らずに地主から借金しての利息は幾ら働いても追いつかず、正月位しか米のご飯が食べられなかったのは士農工商の順位の割には田を持たない百姓は誠に不公平であり不憫でした、きっと食べ盛りの彼女達は毎朝4時起き就業で夜10時まで糸を繰り、休日は週に半日のキカヤであっても三度々々食べさせて貰える米の飯が何より嬉しかったのは、彼女達が貧農の出身だからこそ辛抱ができたものだと思いました。当たり前に白米を食っては今日の飯は不味い…💢など言っている私達は二分搗き三分搗きの米を嬉々として食べていたあの頃の少女たちに対して顔向けのできない罰当たりだ!と思ったものです。

明治も30年後半になると百円工女(1年間に)が出るようになって、娘の持ち帰る百円は現在の数百万円にも当たり、高山では田圃が1反(1000㎡)買えました。此れは全て工女の生来の器用不器用と眼の良さに由来して居り、矢張り年の瀬に1円も持たずに帰る口減らしだけの娘も多く居たのです。ある村では三人の姉妹が250円持ち帰って評判になり、翌年は飛騨古川の三宅イトが13歳で4人の姉に続いて岡谷に行って姉4人が全て百円工女になり、5人で600円持って帰った年もあったりして小作農であった父は毎年田圃を買い増して地主にまでなった逸話がありますが、百円工女の秘訣は努力だけでなく持って生まれた才能にあり、本人の眼力(めぢから)と器用さと体力であり、目の悪いものには蚕から出す細い糸がうまく紡げず、売価の80%を占める原料繭を無駄にするため借金が増える一方の工女と100円工女の差となりましたが、180度の熱湯で茹で上がられる繭は蛹(さなぎ)の悪臭で充満し作業場現場では全員が汗まみれで、並の人には数分すら耐えられぬ場所であったと思います。

「あゝ野麦峠」は発売後ベストセラーの地位を譲らず昭和43年35回も増刷を重ねた結果、紙型が摩耗してしまい47年には新たに活字を組み直して出すに当たって著者は新事実の追加や夥しく届いた読者からの助言や資料提供などにより旧版を全面的に書き改められましたが、新版も15回の増刷を繰り返し、如何に此の本が世の読者に迎えられたかが分かる具体的な数字でありました。読者層は年寄りから中学生にまで及び、昭和45年2月「青少年読書感想文第15回コンクール」入賞作品の一つに此の本を取り上げた三重県の女子中学生の感想文が選ばれて居ます。恐らく作文には此の中学生の100年前の同世代女性に対する切々たる想いが籠められたものだったと思いました。

私が「あゝ野麦峠」を二度に亘ってまで取り上げたには理由があり、私が昔、この小説の舞台である信州岡谷と二度に亘って深い縁に関わったことに拠ります。経緯詳細は私ごと故、伏せさせて頂きますが、初めは蒸気機関車の噴煙に塗れながら中央線を北上した学生時代には木曽福島辺りからお蚕さんの桑畑が林立し、二度目は電化により煤煙に塗れることがなくなった木曽は桑畑が消失して玉蜀黍(とうもろこし)畑と化し、塩尻から岡谷への車窓には変わらず私の好きな月見草が一面に土手を覆って居たのを今も夢に見ます。その後40数年が経過しましたが、時代の変遷には唯々感慨無量の思いです。

工女たちはその後キカヤからの余りの冷遇から日本初の一大労働争議と発展し、結果は言うまでもなく国家権力の庇護を受けた製糸業者の圧勝に終わったのですが、此の事件には市川房江、片山哲等戦後の日本に民主主義を灯した方々が登場されています。来週が最終回となります。

先週の読めそうで読めない字      偏に(ひとえに)両親の顔を見たい

今週の読めそうで読めない字  深い(縁)で結ばれる。