木曜日に寒蝉(つくつくほうし)の声が聞こえたと思ったら早や9月を迎えてしまいました。1年の3分の2が過ぎ去った計算であり、歳月の過ぎ行く早さには只々驚くばかりです。
9月の声に驚いたのか昨日一昨日と気温が8月と急に様変わりして肌寒いくらいの朝でありました。暑さでゲンナリしていた蟋蟀もお陰で元気を取り戻し美声を震わせています(^^)
然し敵は名うてのCO2温暖化現象ですからこの儘すんなりと秋が到来するとも思えず必ず逆襲があるものと応戦の覚悟をしておきましょう。(;;)
庭の瓢箪池には沢山の蛙達がやってきて(播磨町から通ってくる事務所の職員が毎日自宅の近くで捕まえてきて呉れています(^^))賑やかになりました。そろそろ夜には大合唱が始まるかな?と期待していますが何せ五月蝿い住宅街ですから近所から苦情が出るやも知れませんが、“町の真ん中で自然の歌声が聞けて有難く思わんのか!”と一喝し逆襲してやろうと思っています。(^^)
昨夜からひよんなことからキリギリスも庭の仲間に加わりました。昨日個人的な用で町内の民生委員の方に判子を頂戴に参上したとき、縁側でキリギリスの美声が聴こえたので、お訊ねしたら毎年夏になるとご夫婦で“しあわせの村”まで行かれてキリギリスを40-50匹程捕られるそうです。用途はお中元代わりに近所の方々に毎年差し上げるとか、私も便乗して5匹ほど頂戴して、内雄2匹と雌1匹を庭に放し来春の楽しみの基を作りました。
私も経験上この虫の捕獲が如何に困難かを知っていますので、ご夫婦に秘訣をお聞きしたら、ご夫婦の仰るには、竹の先にタマネギを括って鳴いているキリギリスの鼻先にそっと差し出すと暫くしてタマネギの誘惑に耐えかねてタマネギを食べ始めるので、夢中になった頃を見計らってそっと手繰り寄せ昆虫網で捕まえられるとか、奥様の役目はご主人が少し耳が悪いのでキリギリスの鳴いている場所を見付けてはご主人に知らせ、ご主人が目を凝らせてキリギリスを見付けられるそうです。(^^)雌は鳴きませんが雄の近くを丹念に捜すと見付かるとか、それにしても50匹とは凄いですね。
私が行き付けの小鳥屋さんでは1匹700円ですから原価を1匹300円としても15000円にもなりますから“しあわせの村”でお風呂に入ってご馳走が食べられますよね(^^)

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今朝樽プランターに止まっているのを見付けてシャターを切りました。産卵管が付いていますから雌なのがお分かりですね。他の昆虫同様雌の方が雄より少し大きいのですが、産卵後雄は雌に食べられて仕舞いますから哀れですよね。と謂っても人間も似たようなものか!
“竹田の子守歌”は先月後半毎日新聞が社会の底辺に纏わる種々の問題を取り上げたコラム“夕刊ストーリー”の一環として5回に渉って連載特輯されましたが、この子守歌は19世紀の末期に京都市伏見区竹田地区にある被差別部落より生まれたとされております。今年になってから京都市で同和出身職員の不祥事や大阪市の同和住民対策として設けた芦原病院への不正貸付や部落解放同盟幹部による駐車場不法賃貸事件など由々しき問題が発覚しました。同和を錦の御旗として自治体が食い物にされてきた原因は実に自治体の事なかれ主義を利用した一部の同和の連中乃至は似非同和の連中の仕業に依るものでありますが、同和利権のその背景には日の当たらない被差別部落の人達が過去に如何に悲惨な生活を強いられていたかの事実を放任し傍観していた自治体の贖罪であったことを意味し、それらを片や放置し片や食い物にしてきた彼等双方を許すことはできませんが、敢えて嘗てのムラと呼ばれた部落の実状を一般の方々に知って貰い、これらを検証するため今回この重い問題を毎日新聞が勇気を持って取り上げられたものと思いました。
私自身にとってもこの“竹田の子守歌”は大変に感慨深いものであり、一昨年元旦に“竹田の子守歌”と銘打ってこのブログ(当時はHP)が更新されたことを覚えて居られる方もいられることでしょう。この子守唄については何時か機会を見て部落の問題を検証したいと筆を置いた記憶がありますが、この歌は実は子守歌ならぬ守り子唄であり、貧しいため年端も行かぬうちに子守に出された被差別部落の少女が、貧困と差別の中を遊ぶことも学ぶことも叶わなかった怒りと恨みが籠められたものであって、決してその背中に負われた赤ん坊に聞かすものではなく生まれながら置かれた自身の境遇への恨み節であったのです。
当時の被差別部落の人達は貧しいために教育を受ける機会が失われていたため、殆どの女性が文盲であり、自らの生活への自虐から唄った守り子唄はムラの恥を曝すもので人前では決して唄うものでないと信じられていたために、この儘では末代に伝承できずに消え去るところでありましたが、いろいろな方々の努力から様々な経緯を経て彼女達の唄を次世に伝えるために、元歌を丹念に調べて嘗てのムラの暮らしを歌い継ぐ運動が少しずつ浸透し、自らの暮らしへの劣等感から頑なに唄うことを拒んだ人達もやがては次第に心を開き、自分達の生活を唄うことで部落の在り方への次代への問い掛けにしたいと考えるようになったのでした。
アイヌのように文字を持たない彼女達の歌は口から口へと伝えるには方言も災いし至難の業でなかったと思いますが、文字に代えなければ消え去るしかない儚い唄も部落全員の努力で遂にこれをなし得て、01年伏見区で行われた“伏見人権の集い”の舞台では白いブラウス姿のムラの女性30数名の合唱がなされたと記されていますから、被差別部落の方々にとっても唄の再生に努力を尽くされた方々も感慨無量であったことでしょう。
♪久世の大根飯、吉祥の菜飯、またも竹田のもんぱ飯、どうしたい、こりゃ聞こえたか!♪(久世、吉祥、竹田は何れも伏見にある被差別部落の字(あざ)名です)。どう読んでみても子守歌である訳がありませんよね。ムラの恥であったもんぱ飯(少しの雑穀におからが殆ど)を皆の前で曝した歌ですから人前では恥ずかしくて唄えなかったのも当然でありますが彼女達の勇気には頭が下がり、この人達を賤民と貶めて平気で居た我々が居たたまれぬ思いです。記事には彼女達の悲惨な生活が縷々と記されていますが、戦後我が国の憲法第14条に於いては『すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。』 と記載されてあり、古くは明治4年に穢多廃止令が施行されて100年以上が経過しながら平成の世に至るまで被差別部落と謂う言葉が生き続けていたのは何故でしょうか。深く考えさせられた“竹田の子守歌”でありました。
この100年もの永い年月には愛を誓い合いながら自らの出生の秘密が明かせずに結ばれることなく自らの運命を呪い乍ら、死を選んだ有為の若人が数知れずあったことも我々は決して忘れてはなりません。皆様も一度機会があれば古くは藤村の“破戒”近くは住井すえ著“橋のない川”全九巻を読まれたら如何でしょうか。
休養明けのさくらちゃんでしたが、疲れが残っているのかイマイチ気合いが入らず16番2度の池ポチャで6位と沈みました。(;;)藍ちゃんも帰ってくることだし来週の日本女子プロ選手権に期待を繋ぎましょうか。