何時の間にか師走も間近く寒い冬が近付いて来たが、寒がりの私にはこれからが苦手の季節となる。
今日は私の生活の一部についてお話ししましょう。私の人生は殆どが仕事人間に徹した60年間でしたが、一応趣味もあって60数年前の学生時代から始めた囲碁がその大半を占めて居ますが、碁会所へ出掛けたリ県大会に出たりだったのを50年前に限(きり)を付けて、当時流行ってきたゴルフに転向しましたが、生来非力で運動神経に乏しく、並みの人よりボールが飛ばず、有馬CCの会員として月例杯、新年杯で優勝しHD18になったものの、私の二倍近く飛ばす人を見て基本的な膂力の不足に気づき、人の上に居なければ気が済まぬ狷介な性格のためゴルフを辞め、それからの10年間は一人で楽しめる川釣りへ転向し毎日曜には早朝より始発電車に乗り、気候の良い時期はバイクに乗って加古川の河畔などで雑魚釣りをしていました。釣果は全て川に放して帰るのですが、珍しい淡水魚が好きで「かまつか」や「親にらみ」が釣れたときは必ず持ち帰って自宅の水槽で飼育したものです。
そのせいもあって仕事で須磨税務署へ行くときは必ず水族館に立ち寄ってとても大きな水槽「琵琶湖の魚たちコーナー」で楽しい一時を過ごすのが常でしたが、「バラタナゴ」など熱帯魚が霞んでしまうほど美しいので見惚れてしまい、淡水魚図鑑を耽読している私には「イタセンパラ」「ずながニゴイ」や「鰉(ヒガイ)」「すじ縞どじょう」などもしっかりと判別でき、新しい魚が入って居ないかと水族館に行く度に目を皿にして小一時間も水槽の中を眺めたものでしたよ。「鎌柄(かまつか)」など「似鯉(にごい)」の仲間ですが砂に潜って目だけ出して餌が通りかかるのを待つのが常態ですから水族館でも殆どの人には見付けられません。此奴は頭から砂に潜って口から砂を吞んでは鰓から背中や背鰭に砂を吹き掛ける得意技で、瞬く間に外見が目だけになるのを飼育していて気付きました。砂の中に隠れる魚なんて面白い奴です^^。小魚が通りかかると後ろから踊り出てパクリですから小魚は自らの身に何が起こったのか知らぬ儘にカマツカの大きな口の中で自分の境遇の不運を呪って死んで行くこととなります。
うちの近くの福田川でも30年前に水害対策の護岸工事をする前は河原の土手やワンドなどもあり、夏にはウシガエルも鳴いており、大きくないけど真鮒以外にオイカワにカワムツそれにヨシノボリもドンコ(でっちん)も棲んで居り釣り場所も沢山あり当時は小学生だった子どもと良く釣に一緒に行きました。メダカも無数に群れて戯れ、釣り座のさなぎ粉の匂いに集まってきては手で掬えるほどでした、処が行政の無情な護岸工事で擁壁と共に河川の底が均一化されてワンドがなくなり流れが速くなって魚達は殆どが海に流されて死に絶え、今居るのは大きな鯉と小さな鮒ばかりで全く風情がなく大雨が降っても水は護岸の半分にも達しないから自治体の連中は自然との共存を考えずに災害にばかり過剰に意識して人間中心になって自然保護など少しも考えない朴念仁ばかりかと怨めしく思ったものです。ホームセンターでは一匹150円で売られるなどメダカが絶滅種が叫ばれる今になって急に「福田川をメダカが棲める川に…」など募金キャンペーンなどを張って居るが、メダカを棲めなくしたのはお前達じゃないか!今更何を言うか…(>_<)。と思うのは私一ではないと思うんだけどな。
須磨の水族館は大震災で琵琶湖コーナーもなくなり、後は気持ちの悪い魚ばかりで以後は年間入場券も退めて水族館とは無縁となって居ます。
あの当時月刊誌だった「釣の友」には紀行文がよく掲載されました^^。原稿料は一銭も呉れないし、雑誌の一冊も送ってくれないけど原稿を送ったら記事と写真は「加古川に自然が帰ってきた」などちゃんとタイトルまでつけて必ず載せてくれるのです。余程原稿に困って居たものでしょうか、年賀状もくれない無愛想な出版社でしたが何時か潰れてしまい今では40年前の懐かしい思い出となって残って居ます。
先週に日経平均は暴落すると私は予想していましたが、豈(あに)謀らんやぐんぐん続伸し18500円まで上がり当てが外れましたが、お陰で私の持株の目減りは年初再悪時の2400万円から300万円と大きく戻しました^^。トランプ様々だ、来週はどうかなあ?
三省堂国語辞典の「悪妻」
夫をだいじに思わない悪い妻
新解さんの「悪妻」
第三者から「悪い妻」と目される女性、(当の本人は案外気にしないことが多い)
自分の女房が悪妻だと考えて居る男は殆ど居らず、全て第三者の偏見だと新解さんは言いたいのだろうね?
先週の読めそうで読めない字
彼の言葉に論(あげつら)うな
今週の読めそうで読めない字
あれこれと(億)る