笑って福

昨日は阪神淡路大震災から節目の20年目だった。今年に入って新聞やTVは震災の思い出などで満開であり世相のニュースなどすっかり省かれて居た、でも人々の中にはあの悪夢を早く忘れたいと思っている人も少なくないのではないか、神戸版だけかも知れぬが大震災に凝縮された紙面はある方々にとって少し惨かったと私は思う。もうお仕舞いにして鎮魂の追悼は10年刻みにすれば良いのではないだろうか。

昨日の大震災20年目である節目の集いには天皇皇后両陛下がお寒い中を遠路献花にお越し下された。05年にも来られたからから10年振りだ、次はまず無理だろうがお二人共に公務とは謂え老躯に鞭うってお痛(いたわ)しい限りだった。早く隠居制度を復活して皇太子に世継ぎされお二方手を取りあって悠々自適の余生に浸れないものかと憂うのは私独りだろうか。

大震災の一月前に誕生した孫が二十歳になり、年末に帰郷したが12日の成人式に行ってその儘東京の学校に帰って行った。前日家族全員で記念撮影に行くとか正装だったため「枯木も山の賑わい」と変な理屈を付けて私と愚妻が事務所前で孫と並んで写真を撮った^^。孫の腕にしっかりと掴まって仕合わせ一杯愚妻の嬉しそうな笑顔が印象的だな。

大震災当時愚娘達一家は昔私が事務所の厚生施設としていた神戸駅前の小さなマンションに住まっていたが、このマンションが幸い小型マンションの叢生期であるオイルショック前の昭和46年に完成したものだったため倒壊もせず親子3人全員無事だったが、若し2年後である48年の建造物なら鉄筋も生コンも諸費高騰で手抜きされあのオリエンタルホテルのように全壊して居たに相違なく、ひょっとしたら大変だったと思うし、そうなれば家族や周囲から私独りが非難の嵐を浴びて居たろうと当時安堵したものだ。そして震災当日生まれたての乳飲み子を抱えた愚娘一家を車で救出に出向いて頂いたご実家のお舅さんには心から感謝したいm(_ _)m。

昨年12月の日経新聞「私の履歴書」は懐かしやコント55号の萩本欽一だった^^。「私の履歴書」の執筆者は政治や経済界から功成り名を遂げた著名人や学者が定番だし芸能人なら勲章受章者クラスだからコメディアンは珍しい。12月は選挙の関係で新聞休刊日がなく31日間だから破格の待遇で大物扱いだ、小物だと2月に回されて27日間になる。彼は私より6歳年下だからもう73歳になるんだ。「きんどん」を毎週愛聴していた若者達世代も既に50歳を超えた。アラフォーの方は20年近く週100%(常時週3本あり何れも視聴率30%台)の驚異的な視聴率を誇って居た謂わば伝説的な「きんどん」とか「きんどこ」を知らないだろうな。彼は父親が事業に失敗したため中学卒業時に生活のためコメディアンを目指したがなかなか上手く行かず、坂上二郎と組んでコント55号として机を前にしたズッコケコントで劇場デビューしたが、TVに登場したのは27歳にもなってからだ、下積み期間が随分長かったから「私の履歴書」は苦労話でぎっしりと埋められて居る。私が彼を偉いなと思ったのは、東洋劇場の舞台の幕間に前座でコントをしていた貧乏のどん底時代に、この劇場に出演する雲の上の人である三つ年上の踊子(ストリッパー)のお姉さんに物心両面で力付けられて、此の人と結婚しようと心に決めるが「若い人と一緒になりなさい」とまるで相手にされずそれでも懲りずに求婚を続けるとコント55号が売れ始めた頃お姉さんはふっつりと消息を絶ち何処かへ居なくなってしまった。捜すのに手間取ったりして結局結婚まで20年を要したことだ(゚ロ゚)。その頃は欽ちゃんも貧乏のどん底から這い上がってすっかり大金持ちになって居た筈だし心変わりせず初心を貫いたのはホントに偉いな。そしてこの奥さんも大金持ちになっている欽ちゃんの求婚をポンと蹴飛ばしたのは欽ちゃんには元ストリッパーでは相応しくないとの覚悟を決めて居たんだろうね。ストリッパーになったのは親が亡くなり貧しくなった実家に送金するためで、家にも自分の職業を言ってなかったそうだ。でも20年経って欽ちゃんの求婚に対する返事がヨヨと泣き崩れて…なんかでなく、「なに?私をお嫁にするって?無礼者!私は長岡の士族だぞ」だったそうだから面白い奥さんだね^^、結婚後は一切人前に出ないで旅行すら一緒に行かず内助の功に徹し3人の男の子を欽ちゃんの名を使わず自分の腕で飯の食える立派な青年に育て上げたから甘やかし過ぎて子どもをダメ人間に育てて居るそこらの芸能人に欽ちゃんの奥さんの爪の垢でも煎じて呑ませたいよね。だから欽ちゃんは奥さんを妻とも家内でもなく必ず「僕の奥さん」と書かれる。奥さんを心から尊敬していることがよく分かるね、いい話だな^^。「私の履歴書」には奥さんと長男と親子3人の団欒写真が出ている。遅蒔きの結婚会見のとき最初で最後だと奥さんを説得して撮った写真だそうだ、奥さんの澄子さんは決して美人ではないが優しそうな人だった。長男は欽ちゃん似でなく奥さん似だったのは良かった^^。

欽ちゃんのコントが多くの人達の共感を呼んだ一つには彼が小さい頃借金取りに追われて実に貧しい生活を送ったためだろうと私は思う。差し押さえが来るから今日から当分毎夜11時まで帰って来るなと母親に言われ、寒空を公園で過ごす件(くだり)は圧巻だ、差し押さえの執達吏は誰か家人が居ないと不法侵入罪になるから家の近くで家族の誰かが帰って来るのを待っているそうだが彼等も仕事だし残業手当も出ないから夜には帰って行ったのだ、お母さんは万一を慮って11時門限にしたのだね、不在だと赤紙が張れないなんて知らなかったね、尚、家への出入りは念のため全員風呂の窓だったそうだ。こんな話は体験者しかできないよね。「経験者は語る」だな。

最後になるが、彼が今も一番好きだと思っているギャグは読者投稿番組「子どもと母親の会話」にあったと書いてある。彼の暖かみを感じさせるその素晴らしいギャグをご紹介しよう。
子ども「母ちゃん、僕の弁当のおかず毎日梅干しだけじゃないか」
母親「だけど梅干しの位置は変えてるよ」
思わず笑ってしまってから泣けてくるよね、「お金がないから…」とか「我慢しなさい」では温かみがない、此のギャグに心が柔らかくなれない人はお金持ちの家に育った人だろう。投稿した人はきっと小学生で貧しい家庭に温かく育てられてた子どもかも知れないね。本当に心暖まる31日間だった、欽ちゃん有難う。
コメディアンでは亡くなったけど横山やすしなど自伝があれば是非読んで見たいな、西川きよしなんか胡散臭くて絶対に読みたくないけどね。

著名な女流作家であった宮尾登美子さんが亡くなったと先日新聞が報じた、逝去されたのは年末の30日だった。彼女は高知の芸妓紹介所に生まれ、薄倖な芸妓の生活を目の当たりにした生活を通して「櫂」「陽暉楼」「寒椿」と色町に売られた女性達の悲しい姿を発表され一躍人気作家となった。映画「鬼龍院花子の生涯」で夏目雅子が放ったセリフ「なめたらいかんぜよ」の高知弁は余りにも有名だ。下ネタで有名な「なめたらいくぜよ」は上記に由来する。

処で宮尾登美子は作家生活50年以上になる一流作家だから財産も半端ではないと思う。亡くなったのが26年中だったから幸運にも相続税の増税直前だ、もう2日生き存えていたら財産を仮に最低10億円としてざっと見で1億円位相続税が増えていたんだろうと思う、でもご主人は3歳年下だが10年前に亡くなって居るから配偶者控除50%の恩典もないし、今後売れても売れなくても多くの作品の著作権にしっかり相続税が課税されるから遺族は納税に大変だろうな、こんなこと考えつくのも私の職業の悲しい性(さが)だ(;;)。

先週の書けないけど読みたい漢字の答え
孑孒 
ぼうふら(蚊の幼虫)と読みます。音読みは「げっきょう」です。孒一字でもぼうふらと訓読みします。此の字は他には殆ど使われないし画数が少ないから憶えやすいので友人に試したら愕かれるよ、あなたも今日から書ける熟語が殖えたね^^。右の字と左の字を間違えないで…

今週の書けないけど読みたい漢字
雲の(随)に洩れ出ずる月