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銀行の副業

明日から愈々11月です。先日まで居座り続けて暑かった夏も漸く立ち去り待ち焦がれた秋の到来となりました。此の花は晩春に一度ご紹介しましたね、玄関前の庭で長い夏の暑さに耐えて辛抱し、根の力を蓄えることに専念していたゼラニュームが万を持して再び花を咲かせました^^。朝顔が咲き終わった丁度翌日でしたから根っこでグータッチでもしたのでしょうか。花は普通でも葉の色が鮮やかで葉が花を引き立ててくれて居ると私は思いました。

先日歯科医に行った折、待合室で置いてある子供の本を手にとって見たら、「耳と王と口を使って漢字一字を作って下さい」と小学生らしい問題が出て居ましたが、漢字には少しだけ自信のある私なのに幾ら考えてもどうしても分からなかったのです(;;)。恐る恐る答えをみたら「聖」でした(;;)、どうして此の字が分からなかったのか自分でも不思議に思って聖の文字を掌に指でなぞってみると、三回書いて分かりました^^。私の書く聖は実は下の部が「王」ではなく「壬」だったのです(;;)。そうなんや!「聖」は常用漢字であって下部が「王」に変わって居たことに70年以上も私は気付いてなかったのでした(;;)。旧字を左肩に表示する漢検辞典にも何故か記載されません、知らなかったなあ。此の字は5年生で覚える5級の配当漢字であり、若し漢字検定の5級を受けていたら誤ってたんや!此れまでお得意先に「聖フランシスコ修道院」「聖マリア病院」「聖フランシスコ病院」などあリ、聖書も旧約、新約両方学んでカトリック要理まで終了して居り、代父まで決まって居ながら私の優柔不断から洗礼を受けるに至りませんでしたが「聖」の字も書けなかったのですから当然でしたね…(;;)、思えば 私は七十年以上ずっと旧字体を書いてきたんや、そして誰からも咎められることなく今日に至って居ますが、恐らくこれは私の悪筆が原因で誰にも「王」か「壬」か判別できなかったものと思われます。恥ずかしいなあ^^;。

 

総裁がアホで何時まで経っても2%物価上昇は達成できず、お金が余って巷では銀行からお金を借りてくれる人がなくなり、困った銀行は止む無く投資信託を売っても銀行の3%手数料が高くて客は赤字ばかり…(;;)。そこで考えた大手銀行は、多額の預金者の情報を持っているところから相続税の申告書作成業務以外の相続に関する全ての作業の代行業務なる商品を発売し、死亡による使用停止口座からめぼしいものを選んで相続人に事務の慫慂をすることにしました。手数料は財産が1億円まで税抜100万円、それ以上は1%増だそうですが、110万円とはベラボーです。財産の評価額確定と遺産分割財産の算出は我々税理士の相続税申告での必須業務であり、税理士が頂戴する金額よりかなり高額なのに驚きました(@@)。私達税理士は相続される方々の協力を得て財産の資料収集し評価額を算定し申告書を作成しますが、申告書の作成から税務調査の折衝は税理士に押し付けて美味しいところだけ銀行が取るのでとても不条理です。まるで大手の零細企業潰しでは有りませんか💢。こんな強敵の出現には何もプロパガンダを持たない税理士は全くお手上げです。相続税を納める方は可成り財産の多い方ですし、相続税の計算に要する時間の95%以上は財産の抽出と相続税法上の評価額を算出するために費やされ、財産が預金だけの方などまず居ませんから不動産を筆頭に有価証券等各種財産評価通達等に精通しないと相続税の評価額の計算は困難です。評価の方法によっては税金は高くも廉くもなり、全ては税理士の力量が試される処です。然し時代の趨勢から何れ近い将来銀行のファイナンシャルプランナー達が土地の評価方法などを修練し、相続税の申告書に記載する財産の評価額の全てについて優れた能力を付けてくるものと思います。土地の評価は元来理系の分野であり税理士には苦手なことも相続税業務から税理士が唯の代書屋に成り下がり何れは安い報酬で出来上がった申告書に押印するだけの時代が到来する予兆です。相続税の計算自体は書式に従えば容易ですから、評価額の算出が全てでありそれをファイナンシャルプランナーが評価することは税理士法に抵触しないし、相続人自身の自主申告とする形式を取れば、軈(やが)て相続税申告に税理士が必要とされなくなる時代が来ると思いました。

先日お得意先の相続事案で相続人の方がB銀行の名義変更を何気にA銀行に頼んだら快諾されましたが、預金の額に変わらず一律に手数料が20万円と言われ仰天して断られたとか…(;;)、最早貸付利息ではどうにも生きて行けなくなった銀行は相続税の申告に関わる作業を商品としてファイナンシャルプランナー最後の生き残りを賭けて居るものと思われ、お互いが生きて行くためとは言え、世は税理士の住み難い時代を迎えた如くです(;;)。

 

今日は衆議院選挙の投票日です。自民党がどれだけ票を減らすのかが注目されますね。

 

先週の読めそうで読めない字                   彼は徐(おもむろ)に立ち上がった

今週の読めそうで読めない字                 眞子さまは(陵に詣)でられた。

全文𦾔字体の小説

五月も半ばを過ぎれば何時とはなく夏の日差しとなり、一昔前と比べてひと月半くらい季節が早まったようです。毎年6月1日からと決められて居た学校の夏服も暑さの到来から今年は前倒しとなり松蔭女子学園では先週月曜日から白い制服になったと夕刊が彼女達の姿を報じました^^。その姿は旧套墨守で昭和の臭いをプンプンさせる 60数年前私の学生時代に憶えていたダサい服の儘であり、こんなとこにも昭和が残って居たんだと愕いたものです。庭ではカラーの花が満開です、カラーって水芭蕉の仲間だと思いますがファンタジックな花ですね^^。

先週私小説の元祖である嘉村磯多の書いた昭和初期の作品「秋立つまで」を読みました。この作品は岩波文庫で初版が昭和28年で平成13年に5版を迎えた長寿の復刻短編集ですが全編が原文に忠実で𦾔字体の儘印刷されて居り、常用漢字が一字も存在しない不思議な作品です。彼の本を読むことになった動機は彼の作品が梶井基次郎中島敦などと共に始終漢字検定の文章題に登場するためであり勉強のために買い求めたのでしたが、岩波文庫の字は何時も小さくて1行に43字もあって私の儚い目ではルーペが必要であり、133頁を読了するまで3日を要しました。最近の文庫は活字が大きくなって読み易く1行30字くらいの大きさなのまでありますから43字はとても辛くて困りました。でも旧字体と当て熟語に鏤められた作品は私にはとても目新しく漢和辞典を捲りながらの読書は楽しいものでした^^。印象に残ったのはこの時代の作品には口偏と足偏の字が多く使われていることです。最近の小説では口偏と足偏も随分少なくなって居ますね。当時の庶民の躰を使ったアナログ生活が偲ばれて興味深く感じたものです。参考までに彼の使用した旧字体当て字を幾つか列挙します。皆様読めますか?答は文末に載せて居ます。

欷歔、吩咐ける、嬌垂れる、微塵動、徒跣靠れる 羸弱い 国鄙語 蟀谷

三菱東京UFJ銀行が商号を三菱UFJ銀行に変更すると発表しました。思えば20年前、金融国際化に備えて我が国唯一の外為専門銀行である東京銀行のノウハウを獲得すべく巧言を用いて合併し東京三菱銀行となったものでしたが、三菱にとって質は格上でも資産総額の少ない「東京銀行」を冠に頂くことは20年間の屈辱だったようです。然しあの当時の三菱は三顧の礼を尽くして名家の令嬢を迎えたような状況でしたから三菱東京ではあまりにも世間体が悪かったのでしょう。然し今回悲願であった東京の名を漸く消し去ることが出来て三菱は目の上のたんこぶが取れた想いだと思います。然し東京銀行のOB達の無念を思い遣ると万感迫りますね。私が思うに三菱財閥の成すべきことは「東京」を葬り去ることではなく、早く出資金を返して三菱UFJモルガンスタンレー証券(この株屋は早くに東京の冠を消した)の「モルガンスタンレー」を消す去ることではありませんか!このカタカナが存在する限りこの株屋は何時までも国内の顧客にハゲタカのような下衆な株屋だと思われることでしょう(;;)。

天下の東芝が5400億円の債務超過を出して上場廃止の危機に瀕しています。30年前最高値1500円を付けた国内電機最大手でしたが、今や232円と株価が20分の1以下に下がり、代々家の財産として保有されている多くの株主が株価の暴落と迫り来る上場廃止にどんな思いをされているでしょうか(;;)。パナソニックやソニーを顧客に抱えるPwCあらた監査法人から今期3月期の決算について「意見差し控え」の引導を渡され、未だ決算が完了しない為体はどうしたことでしょう。東芝は業界最大手の新日本監査法人に毎年10億円もの監査報酬を支払っていました。そして不正会計を何年も続けていたのに何も言われなかったので、東芝は監査を馬鹿にしていました。平成27年春に東芝の不正会計が発覚し新日本監査法人は責任を取って辞任、新たな監査人としてPwCあらた監査法人が就任しました。いまや女性初の日本公認会計士協会会長を擁するPwCあらた監査法人が東芝に厳しく対応するのは、いつまで経っても東芝が旧態依然として監査法人を舐めていること、さらに怒らせた相手が女性であることもあります。日本の監査報酬が廉すぎるとの声も世界から発せられますが、監査法人が監査会社からお金を貰うから四大監査法人でさえ舐められるのです。監査報酬は株主に変わって国が徴収し監査人は国が公募すべきだと私は思います。

「貴(あて)やか」

三省堂国語辞典  なし あでやか 下品にならない程度に艶めかしい様子

新解さん なし 艶(あで)やか 人の注意を集めるほど綺麗な様子

明鏡国語辞典  なし あでやか 容姿仕草や花などが艶めかしく美しいさま

新潮国語辞典 上品で美しいさま あでやか 貴やかの転で華やかで艶めかしい意

岩波国語辞典 なし あでやか 華やかに美しくで艶めかしいさま

「貴やか」を記し「艶やか」に転じたことを記したのは新潮だけでした。「貴やか」は上品で「艶やか」は格下を意味していたのです。昔は誰もが「貴やか」と言って居たのが時代の変化と共に「艶やか」に移ろうて来たのでしょう。50年前三浦洸一が歌って大ヒットした「踊子」の歌詞にある「貴やか」は喜志邦三の渾身の作詞でありましたが、言葉が高尚過ぎて、世に知られずTVのテロップでは「あでやかに」と書かれることが決まりとなり、この美しい言葉がこの世から消えていったのは悲しいことでし(;;)。

先週の読めそうで読めない字 ♪絵のように貴(あて)やかな♬

今週の読めそうで読めない字 戸を(閉)てる

旧字体での当て字の答え すすりなき いいつける うなだれる みじろぎ

はだし もたれる ひよわい くになまり こめかみ

豊田正子の「綴方教室」

あじさい

5月半ばなのに新緑なんかとっくに通り越して初夏に近い毎日だ。五月のシンボル躑躅(つつじ)の花などとっくに枯れかかって風情がないね、何時もより一月早く紫陽花が咲き出して居るから今年も随分暑くなるんだろうな(;;)。
先週愚娘から妻に送られた母の日の贈り物は定番のカーネーションでなく紫陽花の鉢植えだった。とても綺麗な色だから花が終わったら露地植えにしたいと妻が言いだしたが妻にその趣味がないから結局私が手入れすることになりそうだ(;;)。

綴方教室

先月15日、日経夕刊の「文学周遊」にて豊田正子著「綴方教室」が紹介されたのを読みメチャ懐かしかった^^。戦争前のいろんなことが思い出され昭和59年の復刻版をアマゾンで購入した。確か小学生の後半に読んだ本だが、あまりに昔なので内容は殆ど記憶に残って居ない、全く新しい本を読む感触だった。豊田さんは私より一回り位上の方で、私が生まれる少し前の昭和の初期から日本中を掩っていた大恐慌が全国に未曾有の失業者を溢れさせた頃小学生であって、貧しさに翻弄されながらも東京下町のブリキ工の父を持つ一家の生活を長女である彼女が幼い頃から丹念に緻密に書き綴り、鈴木三重吉の童話雑誌「赤い鳥」の懸賞に当選し、更に昭和10年代になり全国的にベストセラーになった作文集だ。
此の本の読後感だが、幼い少女なのに今ならプライバシーとされる生活のごく細かい襞(ひだ)まで時系列で細部にわたって克明に記録し、ありの儘を飾らず立体的に筆にされているのに殆(ほとほと)感心した。彼女は貧乏だった境遇にもめげずに空腹にも耐えていじけずに、一所懸命その日その日を生きている様が私の少年時代を思い出させ涙を誘う。恐らく彼女は子どものときから抜群に聡明で抜群に記憶力の強い方だったんだろうと思った。
彼女はブリキ職人である酒好きの父親と勝ち気でしっかり者だが亭主の失業を不満として亭主の友人と不貞を働く母親の間で悩みながらも弟達の世話をし、小学校在学中は放課後夜の9時まで縫製工場で働き、卒業後も女工を継続して家計を助け乍ら寸暇を縫って作文を書かれた苦労は、我々戦中派の人間をもってしても想像を絶するものがある。余程書くことが好きだったか或いは書くことで苦しい生活(なりわい)への鬱憤を晴らして居られたのではないか。彼女は学校卒業後芸者に売られる筈だったが写真を送ったら器量が足りぬと断られ(彼女は健康そうでとても良い顔なのだが当時の美人は竹久夢二描く瓜実顔の不健康派が主流だったのかも知れぬ)ずっと赤貧の生活を送っていたことは女工の給与が一日遅れたためその夜食べる米がなく、蒸したさつまいも1本を姉弟3人で分けて食べ空腹を凌いだことなどが書かれて居るから、貧乏の度合いなんかも私の育った昭和二桁代とは桁外れに違って酷かったんだろう。

豊田正子_

手に入れた「綴方教室」の表紙を捲ると「豊田正子」と署名があったことが今日の話題です。本物かどうか確かめたくてネットなどで本人の原稿をみるとどうやら直筆と思えるのだが、署名の個所がなくてはっきりせず、考えた末出版社である「木鶏社」に電話してサイン本入手の経緯を話したら、「担当者に替わります」と言われ年輩の女性の方が出て来られ彼女から字の特長など教えて頂き筆体など話したら、どうやら直筆らしいので鑑定して頂くため「写メで送ります」などと話してたら、先方から「手許に署名入りの原稿があるのでコピーをお送りしますが…」と言われ喜んで申し出に応じた。先週届いた原稿を見ると紛いもなく同じ字だった^^。私の手に入れた本は彼女が知人に送ったものか或いはサイン会で書かれたものだったんだろう。
豊田さんは4年前に88歳で亡くなられたが、送って頂いた原稿のコピーは30年前に書かれたものだ、その原稿中に木鶏社の編集者伊藤紀子さんが登場する、その編集者が私からの電話を受けられた方であることは同封のお手紙に記されて居る通りだから偶然だ。見知らぬ者からの厚かましい電話でもちゃんと受け答えして頂けたのは豊田さんが亡くなられた今でも彼女が豊田正子の「編集者」をされて居た証(あかし)なんだなと感激した。紀子さんだからひょっとしたら私より5歳年下の昭和15年生まれではあるまいか、(違っていたら伊藤さんゴメンm(_ _)m。)この年は紀元2千6百年で全国的に「紀子ブーム」だったことは私が若い頃ミシンのセールスをしていた折、顧客となりそうな若い女性を捜すために知人に貸して頂いたY高校の昭和33年卒業生名簿が「紀子」だらけだったことでよく憶えている^^。あの住所入りの名簿は訪問販売に絶大な効果を発揮したから、個人情報が秘匿された昨今ベネッセの顧客情報が莫大な額で売買されたことは容易に想像できるね。

話はさておき、豊田さんの原稿を読んで居て旧字体と常用漢字が混在しているのに時代の移り変わりを痛感した、昭和二桁の私がそうだから、大正生まれの方は20数年間慣れ親しんだ旧字体から戦後遽しく常用漢字への変更を余儀なくされたことに理不尽な思いが強く容易に常用漢字に馴染まれなかったと思うから編集者の校正も大変だったろうな。
私は幼い頃の郷愁に深く浸るため「粘土のお面」「おゆき」など豊田さんの作品を数冊購入して読んで見た。貴重本の「芽ばえ」も定価の12倍強で手に入れた^^。本は重いけど字が大きいので年寄りにはラクだ^^。「粘土のお面」は豊田さんが成長した10代後半の作品だから「綴方教室」より出色の出来だ。中でも短編の「大晦日」は此の夜一文無しのため年越しの金を借りに除夜の鐘の前に文盲の母親の口述を学校の読方帳を千切って書かされ、仕事先のお宅に行き20円(今の10万円位)借りに行かされる下りは圧巻だ。手紙の出だしが「はいけ、みなさまおかわりありませんか」なんて、何でこの子がこんなことまで…と悲しくて涙がとまらず困った、「はいけ」は勿論「拝啓」のことだが、字を耳から覚えた文盲の母親は勿論当時小学2年生の彼女には書けない字だ、「おとうさんが怪我をして働けなくなった」とウソを吐いて少女にお金を借りさせようと企むお母さんも強(したた)かだったな。だけど2年生の女の子に借金の手紙を書かせて独りで借りに行かすなど、如何に相手の憐憫を誘う手段か知らぬが今なら考えられないことだ、凄い母親だね、イヤイヤ書かされた手紙を持って知らぬ家にお金を借りに訪ねて行く2年生の女の子など今時居ないよな、彼女は生活のためには母親に服従する覚悟を決めて居たんだ(゚ロ゚)。と言うより当時は親の命令に服従することが当たり前で、今の子ども達が過保護に過ぎてあまりにも親の役に立たな過ぎるんだろう、そうだ、思い出した!私の幼い頃は学校から帰ると水汲みやら風呂焚きやら弟を負ぶってのお使いなどあらゆる家の用事をさせられたが、親にご飯を食べさせて貰ってるので当然だと思って居た。勉強したくても戦時中は紙がなかったから、今の子どものように「勉強せー」なんて言われたことがなくて良かったな^^。そのため大学受験でメチャ苦労したけど…(;;)。

苦労して入った大学も入学後は囲碁に没頭して学業に身が入らず、挙げ句当時は何より恐れていた卒業試験の単位が足らずに留年しそうになった悪夢を未だ80歳になっても見て夜中に冷や汗と共に飛び起きることが再々だ。留年が決まれば父に「この穀潰しめ…」と家から叩き出される恐怖心からだ、昔の親は絶対権力者だったがそれは「長幼の序」として当然だったのだ。幸いにも留年せず卒業できたが留年して居たら私の人生は大きく変わって居たに違いないと思う。親は怖かった!
それに引き換え「ご飯全部食べたらゲーム買って上げるからね」などと子どもの我が儘に追従(ついしょう)する情けない親が減らない今の我が国には最早未来はないんだろうな(>_<)。

今夜のニュースは大阪市の住民投票一色だろうな、橋下さんの詭弁に乗せられる大阪人ではないと思うけど…、

先週の書けないけど読みたい漢字
遽(あわただ)しい朝のひととき

今週の書けないけど読みたい漢字
雨が(歇)む