木枯らしが吹くわけでもなく今年の師走はコロナのせいか気忙しくなくて昨年とはイメージが随分異なってきました。それでも庭では何時もの石蕗(つわぶき)が花を覗かせ「これからは私達の出番ですよー」と存在を主張しています、美人薄命と言いますが此奴は花期が余りにも長いため飽きられて余り可愛くありません(;;)。

 

先週お伝えした「戦後秘すべきできごと」は皆様には余所ごとに感じられたかも知れません。然し終戦時国民学校四年生だった私は既に多感な年頃であり、頭脳は良くなくても記憶力だけ他人(ひと)の二倍優れた私には当時のことが今も強烈に鮮明です。
住まいに近かった姫路競馬場のあるところは、当時は陸軍46部隊の後に進駐軍が駐屯して6尺余の米兵がハバハバ(Hurry up)と言いながら街中を跋扈し、警察が無力であるため女性が襲われる事件が後を絶たずに街中を震撼させました。更には学校では「男女7歳にして席を同じゅうせず」とされた儒教の教えが敢えなく撃沈し、クラス替えの或る日それまで他所のクラスだった顔も見知らぬ女生徒が二人掛け席の片方に平然と座って居る日が到来し、初(うぶ)な男子達を驚天動地の境に誘(いざな)ったことや、今は天国に召されましたが当時は女学校二年生でメチャメチャおませだった姉に連れられて行った喫茶店のような店で飲んだカルピスと言う飲み物がこの世のものと思えない美味しいものであることを知り、空腹を凌ぐために不味くても何でも食べていた私には此の味覚の記憶は余りにも鮮烈であって、以来75年間カルピスに勝る美味しい味には出逢って居りません。

「♫カルピス飲んでカンカン娘♪」と高峰秀子が唄った「銀座カンカン娘」の映画が絶世を風靡したのはその後間もなくでしたが、映画監督の巨匠山本嘉次郎が当時の売春婦の蔑称「パンパンガール」に対してそれを「カンカンに怒っている」という意味で創設した造語「カンカン娘」だったのです^^。戦後の昭和21年は数え11歳の私にはどうしても忘れられない激動の1年でした。軈て住居が城北から姫路市内に移って学校も船場小学校となり、私の第二の戦後が始まったのでした。その詳細は次週にて…。あの美味しいカルピスは進駐軍が母国から持参したのかと思ったら大正時代からの我が国の純国産だったのでした、知らなかった(@@)。

 

12月を迎え、我々はGOTOトラベルに拘り、何でも都道府県のせいにするコロナ対策に不誠実な総理とその幇間閣僚達に振り回されながらも、コロナ禍の世相に懸命な日々を過ごして居ますが。思えば明後日12月8日は79年前真珠湾攻撃が開始され大東亜戦争が勃発した日です。ラジオが開戦を告げたのを聞いたのは私が就学前の6歳になり親子4人が朝食を摂って居るときだったのですが、私は開戦を境に5年余の長きに渡り転々と疎開先を辿って学校を五回も変わっては成績を少し宛落とし、次々に起こる数多の事件に振り回されて細(ささ)やかな家庭の平和が乱され小さな胸を痛めながら今思えば運命に翻弄されて悪夢のような少年期を過ごしたのでありました(;;)。

コロナ病床と看護師の数が逼迫し、大阪では医療崩壊を起こし自衛隊看護師の出動要請をしていますが、総理はGOTO…政策を変えることなく素知らぬ顔をして居ます。どうして…?

 

先週の読めそうで読めない字      黃粉(きなこ)を塗(まぶ)す
今週の読めそうで読めない字      (身動ぎ)しない状態