50年に一度とかの記録的な大雨一過の翌朝月曜日早朝はカラリとした晴天となり5時に起きた私の目に映ったものは久し振りの日の出と開花3日目にして見事に咲き誇った月見草の花の大群?でした^^。大雨に打たれて咲けなかった三日間の鬱屈をぶち撒けるかのよう見事に咲きました^^。10cmを超えるとても大きな花を付けています。庭に設置した生ごみ処理機で作った自家製堆肥をふんだんに与えた効果が存分にでたみたいです^^。うちの堆肥は年季が入って居て取出し口から掻き出すと何時湧いたのかしまミミズが無数に出て来ます。50年も昔のことですが加古川で雑魚釣りに日曜日は独り始発電車で出掛けて寺家町の釣り餌屋で鮒釣りの餌ウドンと一緒にしまミミズを買って居ました。ミミズを餌に置き竿にするとカマツカやニゴイやドンコや蟹など珍しいヤツが良く釣れました。今は昔の懐かしい思い出です^^。

あの豪雨災害の被災地である倉敷市真備町で雨が降り続く中、一人の青年が車に積んでいた釣り用ボートに空気を入れて被災地に必死に漕ぎ入れベランダで胸まで水に浸かったおじいさんや屋根の上でタオルを振る小さな子どもの姿に「すぐ来る」と声をかけては、定員3人のボートを高台の土手の間を往復して順番に救助を始めました。片道10分以上かかる土手までの道のり?を何度も往復し、目の高さにある電線を潜り、クギが刺さった瓦礫を避けて進み、何度も屋根瓦に当たってボートに穴が開いたらどうしようと不安に苛まれながら、さっきまで助けを求めて居た人に万が一のことがあればという思いが強く、オールを漕ぐ手が止まらなかったそうです。前夜から飲まず食わずの処を救助を待つ人達を見捨てられずに孤軍奮闘救助活動を続けた疲労から脱水症状になり入院することにまでなったこの青年野村さんはメチャ偉かったですね。沢山の人を安全な土手まで運んで力尽きたそうですが「まだ人が残ってる」「行かないと」と口にし続けたとか…。ネットでしか報道されなかった美談ですが凄いですね^^。
翌日岡山入りした安倍総理からは勿論一言の労いの言葉もなかったことでしょう(;;)。何処を訪問されたのか知らないけど、総理一行にいっそ泥に埋まった家具の取り出し作業でもして頂いたら如何だったでしょうか?きっとお見舞いの原稿を読まれるより被災民の方々に喜ばれたと思いますよ^^。安倍総理には早く帰って貰わんと…💢、避難民や行政の迷惑になっているのと違うかな?え?愛媛県にも行ったって?来るなとも言えず災害でテンヤワンヤの愛媛県のお役人も大迷惑や(;;)。陛下の真似して公民館まで行ったらしいが混乱時に邪魔っけだったろうな。被災民の落ち着いた頃まで待機されて熊本や東北に行かれた天皇の優しい言葉と違ってそらぞらしいものでしたよ。そんなに早くに行くな!
そう謂えばNHKラジオがボランティアに来て頂く方はスコップに長靴軍手と完全武装して自分の衣類と飲む水食料は必ず持参してほしいと繰り返し訴えていましたよ。手ぶらで来られると来られた方がとっても困るそうです。又、被災地には大量の見舞い品が届けられますが重複したものが多く、冬物の衣類など送られると全く困られるそうです。一番迷惑なのが大量に送られてくる「千羽鶴」だとか…、多くの女性が被災者の安否を祈願し身を清めて心を籠め作られたものに違いありませんが、死にかけた病人の枕元ではないんやから被災地にはそんなもの贈られても置くところも使い途もなく、「悪いけどそのお気持ちをどうかお金に替えて送ってください」とは被災地の本音です。だけどお金を何処に送ったら良いのか戸惑いますね。赤い羽根や共同募金はピンハネが凄いらしいし、ユネスコだって、品川のあの大きなビルを寄付金から建てたそうです。私は東京都に送った尖閣諸島買い戻しの寄付金10万円(現在総額10億円あるそうな…)は都知事が変わって放ったらかしや(;;)。

画数の少ない漢字

「卜 」訓読みはうらなう 音読みはボク 卜占などにも用いる、昔「左卜全」と謂う、田舎の老人を演じたら此の人の右に出るものがいないと言われた、トボけた老優が居ましたね。昔はオペラ歌手だった人で役者としては黒沢監督にとても気に入られ「生きる」などで重用されて居ました。

先週の読めそうで読めない字   足が怠(だる)い

今週の読めそうで読めない字   先人の教えを(導)にする