気のせいか師走の風が先月より冷たく感じられますが、きっと5年で43兆円と異常な防衛予算に加えて、国民に寄り添う気持ちの見えない岸田総理の無策により給与が上がらず諸物価ばかりが高騰し、下がるのは総理の支持率ばかりとなっては庶民にとってとても住み難い国となりました🤬。事務所の玄関には先々月採取し先月半ばに播種器に蒔いた月見草の種が発芽を始めました(^0^)。もう少し大きくなったらご紹介しましょうねm(_ _)m。

履歴書の続編は製薬大手である武田薬品本家の三男武田國男氏の登場です。武田薬品は1974年に六代目武田長兵衛が会長に退き副社長の小西新兵衛が社長となりました。此の人事は1981年の創業200周年を機に長男彰郎を社長に昇進させる準備が進められており、小西の社長就任は六代目の長男彰郎へ世襲する間の繋ぎでありました。処が武田薬品に思わぬ不幸が訪れたのです。1980年2月に彰郎がジョギング中に倒れ46歳で急逝し(;_;)、六代目長兵衛は長男の死に大きなショックを受け気鬱から9月に死んでしまったのです(;;)。兄の死後病床の父を見舞った三男の國男は「なんでお前が生きとるんや。彰郎の代わりに、このアホが死んどってくれたらよかったんや」父の目がそう語っていたと私の履歴書にて述懐して居られます。家族全員から無能と思われて居た三男國男は武田薬品入社後誰からもアホボンと見做されて本流の医薬事業を歩むことなく、後年成果を発揮することとなる傍流の国際部門に窓際族として永らく配置されていました。創業家一族のエリート社員とは全く遇されて居なかったのでした(;;)。武田薬品を立て直した三男の息子國男は父・武田鋭太郎(後に六代目武田長兵衛を襲名)母繁子(十代目國分勘兵衛の娘)の三男として住吉村に生まれ、長兄・彰郎次兄・誠郎の三兄弟のオトンボであり、1955年甲南高等学校に進学し1958年に甲南大学経済学部に進みましたが彼はそれまで一度も入学試験を受けたことがなかったため授業について行けず大学時代はパチンコ屋に通うのを日課として居ました(;;)。卒業後は武田薬品に入社し経理部事業計算課に配属されましたが、武田家の期待から全く諦められて居た三男國男は入社しても決して本流の医薬事業に歩むことなく、傍流の部門に永らく配置され、決して創業家一族のエリートとは遇されて居ませんでした(;;)。そして誰も彼の品行を知って居るので彼の存在を無視して行動したため、彼は窓際族の特権で会社の片隅に居て誰からも警戒されないので営業や人事その他の汎ゆる情報を自在に耳に入れることができることができたため、何も仕事のない彼にも次第に会社の全貌が読めてきたのでしたが、それに一番早く気付いたのは武田家の子飼いの番頭であった小西社長であったのです。

1981年小西は後任の社長に叩き上げの倉林育四郎を指名し、倉林以降は厚生省事務次官であった森田桂や梅本純正が天下りとして社長を務めました。この間國男は武田一族としては窓際族と謂う異例の閑職に追いやられたことによって、誰からも胡麻を摺られたりせず警戒もされずに客観的に会社を俯瞰できる環境に身を置くこととなって会社の良いところだけでなく悪いところも全てが把握できたことが彼のポテンシャルを広げる結果となりましたが、此のアホボンは閑職に追いやられることで誰からも警戒されずに会社の本当の姿を眺めることが可能となって武田薬品の内部事情を客観的に俯瞰することができたのだと思いました。その後小西社長の指示により米国・アボットラボラトリーズとの合弁会社TAPファーマシューティカル・プロダクツのエグゼクティブ・バイスプレジデントとして派遣されましたが、彼は武田薬品の米国本格進出に際して売り出す製品として、当初の予定であった抗生物質ではなく社内の猛反対を押し切って独断で前立腺癌の治療薬を投入しました(;;)。ナント!これが功を奏し武田薬品の米国事業が成長軌道に乗りました。尚、既に当時抗生物質製剤は米国内では価格競争が進み成熟から衰退期に差し掛かっており、武田薬品が抗生物質を製造しても採算が取れる見込みは殆どなかった可能性が後日明らかになったのです!。このときの判断は経営者としての判断力を表すエピソードとして可成り有名となりました^^。そしてそれらの功によって1987年には晴れて取締役に選任されることとなり、その後順調に常務、専務・医薬事業部長を経て、1992年に副社長、翌1993年遂に社長に就任したのでした^0^/。 そして國男の社長登用を強力に進めたのは長兵衛子飼いの番頭であった小西新兵衛氏であったのです(゜o゜;/。翌週に続く…

先週の読めそうで読めない字   罪を原す(ただす)

今週の読めそうで読めない字   独り(若気)ける