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87歳の呟き

確定申告期限まであと十日となりました。全員頑張ったお陰様でどうやら無事期限内完了の目処が立ちヤレヤレです。事務所の前の坂の上にある大きなお家の庭の紅梅が満開です^^。部屋の盆栽を露地に下ろしたうちの梅とはまるで違って結構樹齢が長い木なのでご覧のように花も沢山付けています^^。

 

先々月に麻生自民党副総裁が「少子化の一番大きな理由は出産するときの女性の年齢が高齢化しているからだ」と発言し、女性の初婚年齢が「今は30歳で普通だ」とし、複数の子どもを出産するには体力的な問題があるかもしれないなどと話し物議を醸しました。
一方で明石市の泉市長は「晩婚化が無関係とは思わないが、最大の原因とも思わない」と反論した上で「国民に責任を転嫁せず、政治家の責任(子育て支援策の充実化など)を果たすことを切に願う」と意見を綴りました。泉市長のツイートに、コメント欄は「私も切に願っています」「晩婚化の要因の一つは間違いなく賃金」「若いうちは給料も安く、さらに増税&物価高でとても結婚して子育てという感じではなく、教育費も上がる一方お金がないなら子どもを産むな!という風潮だから晩婚化した根本的な原因から目を背けているように思います」「子育て支援以前の給与が安すぎる」様々な此等の意見を読んで私は思いました。皆さんの仰ることは全部ご尤もです❣でも皆さんよく考えて下さい、今の75歳以下の若い?方は少し贅沢で自分勝手ではありませんか?第二次世界大戦が終わるまでは誰もが親や周囲の意思に従って顔を見たこともない相手と結婚し、姑にいびられようとも子供を生んで貧しくても懸命に育てて居ました。私の母は結婚式で初めて父の顔を見たと言いましたから結婚は親の意思であり子は親に従っただけだったのです。どんな辛いことがあっても姑にイビられようとも離婚など毛頭考えもしない時代であり、よしや実家に逃げ帰っても戸を閉ざして入れて貰えないのが世間の仕来りでありました。生活面では私の年少時を思うとあの頃は誰もが今よりメチャクチャ貧しかったのです。私が朝から晩まで考えていることは減っているお腹の解消法ばかり…。何時も一口に20回以上噛まないと咀嚼できない麦80%に五分搗きのご飯を少ししか与えられないため、食後もずっと空腹で身体はガリガリでした。だからその辺に咲いているタンポポやスカンポなども探してはこっそり食べて居ました(;;)。母親は戦前一家四人の食事のおかずを週に50銭で遣り繰りするよう父に命じられていたそうです(;;)。それでも私がよく見る一番幸せな夢は一家四人(父母と姉と私)が丸いちゃぶ台を囲んでご飯を食べる場面でした。零した飯粒を食べないと盲になると父に殴られるので周辺は隈なく這って探しました、そうそう、よく母に一升瓶に玄米を少し入れて棒で突かされました、一時間も突くと白米は無理ですが五分搗きの米になるからです。玄米より早く炊けて焚き物の節約にもなるのでした^^。暖房具のない当時の冬は今より遥かに寒く靴下などない時代だったし、子供は今よりずっと寒い真冬でも半ズボンで裸足の膝や足指が草鞋に擦れて霜焼けで皮が剥がれて赤剥けになり、何に触れても痛くて大泣きしたけどそれでも滅げずに生きることに懸命の毎日でした。そんな悲しい筈の昔が思い出されて何故か懐かしいのはどうしたことでしょうか?女性の結婚も「25歳までに行かないと貰い手がなくなる」と近所の人から後ろ指を挿されるので未婚女性は仕方なく皆20歳ちょっとでお嫁に行きました。相手の顔など見ないうちに親が決めた相手に何も言わずに嫁ぎました。嫁ぎ遅れによる所謂「行かず後家」と近所から噂される世間体の恐怖がそうさせたのです。そして周囲から浴びせられる「出戻り」の陰口が嫌で姑小姑にイビられながらも結婚生活に耐え次第に少し宛家庭内に自分の地位を得て行ったのでした。それは今の若人の婚姻への道程と比べて余りにも大きな隔たりがありますが、食べてゆくことを何より優先されたあの当時はそれが当たり前で見知らぬ相手と娶(めあわ)されて相手が気に入らなくても実家には居場所がない身の上から誰も離婚など毛頭考えず不平不満をじっと我慢し生活して居たのはどうしてだろう?と考えると、きっと現在の日本人が贅沢すぎるせいだと思いました。バブル崩壊前後から熱烈に恋愛して結婚、3日で離婚するカップルを多く見てきましたが、覚悟が足りないのか或いは自分本意の生活をしていたために相手への思い遣りや協調性や人間として相手への包容力に欠けているのだと思いました。一緒に暮らして見て価値感が違うなど気付くのはそれまでお互いが相手の外面しか見て居なかったからであり自業自得ではないでしょうか。

 

閑話休題、私の子供時代を回想すると戦前戦中戦後あの当時はずっと生きるために食べるのではなく食べるために生きており人生は唯々忍耐の一字でした。お腹が空かない生活が一番の願いだった私達の幼い頃でしたが、今思えば本当に小さな望みだったと思います、でも素朴でとても純粋でした。そしてそれはそれで現在87歳の私が抱く本当に懐かしい想い出なのです。暖衣飽食となった昨今もう一度あの頃に帰りたいなあ!ともうひとりの自分が囁きかけますが、どうしてなんだろうな?

おしまいには痛快な写真をお楽しみ下さい。22年前講道館で小学校4年生の少女に投げ飛ばされたプーチンです。彼女は現在東日本の女子柔道部コーチを務めています。ゼレンスキーさんに見せれば少しはストレス解消になるのでは…^^。

 

今週の読めそうで読めない字          神事の後の(直会)

先週の読めそうで読めない字          就中(なかんづく)

叶えられなかった幼女の願い

 

此の小さく可愛いカタバミを見て下さい^^。朝の日の出に合わせて蕾を開き初め明るくなってから漸く咲きますが、正午過ぎにはもう花弁を閉じて蕾の状態に戻ってそうそうに眠りに入り、一日の5分の4は寝て居る不思議な不思議なカタバミです。10日以上咲き続けます。何処からタネが飛んできたのか事務所玄関先のカラマツソウの横に先月半ばから咲きだし今ではちょっとした群落となっています。カタバミは普通夕方まで咲いていますから、どうして此奴だけそんなに早く睡るのか不思議でなりません。でも小さい花って可愛いですね。午後のほうが日陰になってきれいに写し易いんだけど寝ているとこ撮ってもしょうないもんね。横の黄色い花はキツネノボタンですから此のカタバミの小ささが分かりますよね。カタバミ「グレシャムの法則」であり、瞬く間に庭を占領して他の草花を駆逐する悪い雑草としてとして嫌われていますが、私は一向に意に介しません。でも雑草ばかり可愛いがってどうする?と何時も周囲から冷たい目で見られて居ることは事実ですが、そうなんです。私は生来世を拗ねた臍曲りの偏屈なんです。

 

 

「じぶんからきょうよりか、もっともっとあしたは(勉強を)できるようにするから、もうおねがいゆるしてゆるしてください」事件はガリガリに痩せた結愛ちゃんが3月2日搬送先の病院で死亡して発覚しました。鬼畜のような両親が虐待の発覚を恐れて香川県から東京へ越してきてから、5歳の結愛ちゃん未だ小学校も通えない幼女なのに閉じ込められた電気のない部屋で毎朝4時に起き鬼の儘父からノートに書かされた反省文の一部です。先週此の鬼畜は殺人容疑で逮捕されましたが警視庁捜査一課の鬼刑事でさえ記者団に此の反省文を読み上げるとき声を詰まらせたのでした。結愛ちゃんは奥さんの連れ子であり虐待した父はご多分に漏れず結愛ちゃんの実のお父さんではありません、一歳の男の子ができてから妻の連れ子が憎くなってよくある継子虐待が始まったのでしょう。私達の心を揺さぶるこのノートは大人の身勝手から自分を守ろうと必死に努力をして力尽きた結愛ちゃんの生きてゆくことへの切望が記されています。結愛ちゃん生きたかったよね、何時の間にか世の中随分変わりました。我々の幼い頃はメチャ貧しかったけど親たちは自分達はお腹いっぱいだとウソを嘘を付いてまで子ども達に少ししかない麦ご飯を食べさせてくれましたが、どうしてこんなに悲しい事件が次々と起こるようになったのでしょう。暖衣飽食って人の心を貧しくするのではないでしょうか。都庁の児相さん、毎日9時から5時まで机に座って居れば給与が貰えると思ったら大間違いです。真実を追求すべく問題家庭に乗り込んで一所懸命仕事をして下さいね!

知っておきたい生活の知恵

岡山大学付属病院で1年間になくなったガン患者の死因を追跡すると80%がガンではなくガン治療の副作用で亡くなっておりその報告論文を医学部長が皆の前で破り捨てたそうです。

先週の読めそうで読めない字    小川の辺(ほとり)

今週の読めそうで読めない字   (朱)を奪う紫