4月も半ばとなれば桜も殆ど散って木立の様相は初夏の佇まいを呈して参りました。事務所の庭では今年初めて可愛い林檎の花が咲きました。姫林檎か乙女林檎か忘れましたが露地に植えて三年目かと思います。昔乙女林檎を植えたら10個以上も実がついたので、喜んでいたらその儘枯れてしまった経験があるので、今回は木の大きさに見合った分相応の実の数に止めようと思っています。現在花が蕾共に20個位ありますから半分以下にしましょうか。

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宮城まり子さんと謂えばご存じの方も多いと思います。きっと身体障害児のための“ねむの木学園”の創立者としてご存じでしょう。然し私共戦前派の人間は終戦後の混乱期に人生の縮図を垣間見て育ちましたから昭和30年に大ヒットした“ガード下の靴磨き”を唄った宮城まり子を見てひもじかった少年期を想い起こし忘れることができません。♪なんでこの世の仕合わせはみんなそっぽを向くんだろ♪鍋底景気の最中(さなか)で誰もが自分の不仕合わせを悲しく思っていましたから、瞬く間にこの唄は日本中を席捲し彼女はこの年の紅白歌合戦にも出場することができました。
その宮城まり子が先月の日本経済新聞朝刊巻末の“私の履歴書”に1ヶ月間通して登場されました。聞けば80歳とか!私が20歳位の時につなぎのズボンにハンチング、顔を少し汚した靴磨き少年のイメージでしたから私より若いお年だと思っていましたが実は当時既に27歳だったのですから驚きました。 {%komaru%}
日経新聞“私の履歴書”が私のブログに登場するのは昨年年初の武田薬品のアホぼん社長以来でありますが、“私の履歴書”は殆どが功成り名を遂げた方のサクセスストーリーであり、私流儀のブログには相応しくありませんが、宮城まり子さんの履歴書には心底敬服と身震いする程(今風に表現すれば粟肌(とりはだ)が立つとでも言うのでしょうか)の素晴らしい感動を与えられましたので是非皆様にご紹介したいと思いました。
彼女がどうして障害児のために“ねむの木学園”を設立しようとされたのか、その動機が又変わっていて、自身が菊田一夫先生のミュージカルに出演したとき脳性麻痺の子供の役を割り当てられ役作りに板橋にあった整肢療護園へ勉強に行って三日間自分の演技の手本に子供達を見学されたことが発端だそうです。今から40年も前でもあり、この子達が通う学校がないことを知らされて愕然とされ、以来障害を持つ子供達を助けようと考えられたのですが、その実行に当たって皮肉にも自身が障害児の役を務めることになったことが大きな神の啓示となり今日の礎となったものですが、その行動力と或る意味無鉄砲さには驚きと共に胸打たれるものがありました。
然し肝心の舞台では例え僅かな期間であっても障害児の生活に接したが故に、客席に一人でも家族に障害の子を持つ方が居られたら…と、どうしても障害児の仕草ができずに菊田先生の意向に反して只健康な子供として歌い踊ったために一度も拍手を貰うことがなかったそうですが、カーテンコールのとき観客席に下りたら誰かに足を掴まれ、見ると脳性麻痺の少女が“まーリー子さん”とお父さんとお母さんに抱かれ乍ら足にしがみついて呼んでいたのです。笑えば笑うほど歪んでくるその顔を見て、若し自分が脳性麻痺の子供の演技をしていたらこの子はどんな思いを持ったろうか、ご両親はどんな気持ちになられただろうかと気が遠くなる思いをされ、断崖から独り飛び降りるに等しい宮城まり子一生の仕事を決断されたのでした。
舞台の終わった後神奈川県庁に行って“不自由な子供達のお家を作りたいのですが何処へ行けばいいですか”と守衛さんに聞いたら守衛さんは“あんたお家何処?”東京です“”それならそこを真っ直ぐ行って電車に乗れば帰れるからね、お帰り“”あのう“”はい、さようなら“公演の帰りでサングラスにマスク大きな帽子では守衛さんが頭のおかしい女が来た、と思われても当たり前だったのでしょう。正直言って私はこの当時宮城まり子は天真爛漫も度を超していて純粋過ぎて少し足りないところのある人だと思っていました。ご免なさい。 m(_ _)m
少し足りない人に障害者の学園が40年も続けられる道理もなく、宮城まり子はある意味無茶苦茶足りない人であり、その代わりその何百倍もエネルギーと情熱だけでなく周囲の人達にいっぱいの感動を与える“イット”を持った女性だったのです。
世に一番難しいことは役所への許可願いの書類の作成だとよく謂われますが、優等賞を貰ったにせよ小学校しか出ていない者に社会福祉法人の設立趣意書が書ける訳もありませんが、彼女は夜中に必死で原稿を書いて新宿の公演の合間を縫ってタクシーで厚生省を毎日のように訪れましたが“はい、ここんとこ訂正の判子捺して下さい”と連日違う箇所の小出しで同じことの繰り返しでしたが、仕舞いにはお役人も根負けして毎日のように幕間に訪れる彼女を笑って迎えてくれるようになり、遂には間違いの訂正印だらけの申請書を許可してくれた下(くだ)りは彼女の熱意が無感動さが売りの役人共を揺り動かせてくれたものだと思いました。役所への書類以上に大変だったのが設立に不可欠な預金の残高証明書や寄付金証明書だったそうですが,お金は少しもないし、姿形のない子供の家に寄付を下さいとは誰にも言えずに困った挙げ句が作曲家の服部良一先生や作家の高見順先生にお願いして“お金は私が作りますから証明だけ書いて下さい”とお願いして叶えられたことも彼女の訴えには誰の心をも打つ真心が籠もった真実があったに相違ありません。
設立時のエピソードでは上述の箇所など極く一部であり、紙面に書ききれずまるでドラマのように多彩なものでありましたが、やがてはたった二部屋のあばら屋にも伊藤忠の伊藤忠兵衛さんが訪ねられて100万円置いて行かれたことや、近くの縫製工場のご主人が訪ねてこられて“私らがせんならんことをまり子さんがやって下さって感謝しております。家内と相談して持って参りました。”と封筒を渡され、お子さんの身体がお悪いのか?と封を切ったら、入っていたのは手紙ではなくナント!1500万円の小切手であり、ゼロの数を数えて吃驚して“とんでもない”と押し問答の末震えながら頂戴することになりましたが、雨降りで小走りに帰って行かれるその方の姿に現代の神様は作業着を着ていらっしゃるのだなと感じられたとか…。 {%warai_a%}
ある時ナショナルの連続TV小説に出演したとき松下幸之助翁に相談したら“やめときなはれ、まりちゃんは歌をうとうたり芝居をしたり人の喜ぶことをやってる天使や、それが神様みたいなことしたらあかん”と言われ“大変なことやで、それでお金おますのか?”“あります、1700万円です”経営の神様は“うーん”と言ったきり絶句されたそうです。それでも3年ほどして建物が整った頃“新しい機械やけどテストして欲しい”と当時は未だなかった防犯カメラ8台を下さり、その後10年ほどしてから松下翁が”まりちゃんが弱い子のために頑張っているのやから私は日本の将来のために優秀な人材を育てます“と70億円で松下政経塾を作られました。
彼女の面目躍如たるところは、その後数年して養護施設の長の会合に出席した折児童が中学までは措置費が貰えるが高校に行っても貰えないことを教えられ、無鉄砲にも総理大臣官邸に乗り込み総理大臣にお会いしたいのですと座り込んだら数分して就任したばかりの田中角栄氏が “おう、”と出て来られたので、“総理、幾ら優秀でも定時制高校にも行けない養護施設の子供達と、その面倒を見る職員達のことも考えて下さい”と切々とお願いしたら“やあ、勉強になりました、すぐ返事ができないけど待っていて下さい”と言われ、早速翌月二階堂官房長官から連絡が入り、養護施設入所児童で高校に進学する能力があると認められた者には國から費用を交付する。直接処遇職員については基本給を12%乃至16%加算すると制度の改正を伝えられたのです。非運の死を遂げられた角栄氏でしたが、彼でなければできなかった大英断でしたね。今なら厚生相の役人の反論が怖くて安倍総理も腰が引けて提案すらできなかったことでしょう。 {%gakkari%}
今年になってからまり子さんは或るパーティーで森ビルの社長さんと会われる機会があったそうですが、六本木ヒルズのてっぺんでねむの木の子供達の繪の展覧会ができたらいいなと思っていたら、森社長から“貸し会場にもしていますよ”と言われ、“大それたことを、バカね私は…”と後悔の念に苛まれていたら、ある時森社長が東京現代美術館でねむの木の子供達の繪をご覧になり“これは凄いね、うちの会場を使って貰おう”と言っていられたと人伝てに聞かされ、お礼に伺ったら、子供達の繪の話になり、森社長が“子供達が繪を書いて持ってきたら何て言うの?上手いね、とかここがいいとか言うの?”と訊ねられ、“いいえ言いません。上手に書けたと言ったら子供はその場所で終わってしまうような気がします”“それなら何て言うの?”“『ああ、うれしいわ』と言います”“ああうれしいわ?”“はい、子供達は人を喜ばせたと幸せに思ってくれます”“うーん、うれしいわ、ね”“はい、ああうれしいわ”そして半分真面目に半分楽しくて同席した皆して笑ってしまったとか…。 {%ureshii%}
仕事の時はさぞ怖い顔をされていると思われる森社長もあのときは優しいお祖父ちゃんのような顔をされ、エレベーターまで送って出られて“うれしいよ”と呟いていられたそうですよ。
心温まるお話ですよね。まり子さんならではの逸話です。皆様もお子さんやお孫さんが自分で作ったものを見せにきたら“上手ね”など言わずに“うれしいわ”とか男性なら“うれしいな”と言ってやりましょうね。 {%ureshii%}
まり子さんの夢は再来月6月1日から始まる森アーツセンターギャラリーでの展覧会会場に多くの花びらを撒き散らし、更に苛めや自殺を考えている子や迷っている子供達のために52階から沢山の花びらを撒きたいと願って居られるそうです。
世の中全て算盤づくで生きて行く人ばかりかと思っていましたが、そんな世俗とは無縁の世界で懸命に生きていられる宮城まり子さんを見て、まるで幼女が天使の心を持った儘大きくなられたように思われ、俗世間に毒され蝕まれた私自身が恥ずかしくてならなくなりました。
然し天使の彼女も既に80歳、何時までねむの木学園を護って行かれることができるのか気掛かりです。第二第三のまり子さんが待たれますが最早こんなに素晴らしい天使がこの世に現れることはないでしょう。 {%gakkari%}
久し振りに涙と感動を私に与えて頂いた“私の履歴書”1ヶ月間でした。天使のまり子さん有難う。
女子プロツアー第二戦目のライフカードレディースはさくら選手の初優勝したゲンの良い試合でしたが今年はイマイチ調子が出ず11位タイと低迷しファンの期待を裏切りました。優勝は地元出身の上田桃子選手20歳、名前に似ず可愛い気のないイケズ顔でした。 {%tohoho_a%}