土筆

芦屋のNさんから送られてきたお庭に咲く「つくしんぼ」の写真です。昔はうちの裏の土手にも無数に生えていた、遠くなった自然との再会だが余りの懐かしさに身悶えしそうだ^^。
うちの「つくしんぼ」はずっと昔消えてしまった。スギナは生えても何時とはなく「つくしんぼ」を見かけなくなったが土手の湧き水の傍で棲息していた真っ赤な大きなハサミを翳したベンケイ蟹も居なくなったって久しく、カタツムリや雨蛙も此処数年見かけなくなったが、その辺の溝を駆け巡っていたドブネズミも居なくなった。きっと降ってくる雨水の質が原因なんだろう。

大昔、裏の土手で摘んだ「つくしんぼ」の袴取りをさせられたことを思い出す。袴だけ取ってその儘菜っ葉と薄揚げを混ぜて煮ての単品が質素な夕餉のおかずだった。頭は少し苦いけど味の薄い茎より美味しかった^^。あれは国民学校1、2年生の頃だった。

子どもの弁当

日経夕刊の記事からだ、東京荒川のある小学校では年に2回「お弁当の日」を創り、全員が献立作りから買い物、調理に最後の片付けまで自分でするルールで最後に皆で弁当を見せ合い、記念撮影をしてから食べるそうだ^^。
此れって良いことだね、塾、塾と勉強に明け暮れることは本来の子どもの生活ではない、家族が協同して一つのことをしなくなった昨今だが、男女を問わず厨房に入ればお母さんの苦労がよく分かるし、何より幼少時から包丁捌きなど台所仕事に馴染ませておくと独り暮らしになっても困らないし、何より今は欠けつつある家族の団欒が取り戻されるきっかけになるから素晴らしいことだと思う。この時季「つくしんぼう」もお惣菜に添えたいね?
世の中「保育園落ちた、日本死ね」と心貧しい世相だが、夫婦が協力して台所ができれば、共働き夫婦も公平だし、それを見ている子ども達も影響されて家事に参加できる良き習慣だと思う。
子どもが自分自身で作ったものをお弁当にして学校で食べることはとても子ども達のためになるだろう。写真の阿川さん家(ち)のように幼い頃から食事作りに参加させる家庭って、ともすればバラバラになろうとする家庭環境を本来のそれに置き直すことができる良い機会だろう?妹がお姉さんの手許を見る目は真剣そのものだ。与えられたものより自分で作ったものは愛着度が全く異なり、不味くても美味しく感じると思う。この時季一度子ども達に「つくしんぼ」の袴取りでもさせてみたいね^^。苦い「つくしんぼ」でもきっと「美味しいね」と食べると思うけどな…。
因みに「男子厨房に入らず」の格言は孟子の言葉だが本来の意味は全く違います。

平成28年熊本地震は本当に痛ましいできごとだった。16日未明の余震はあの阪神大震災と同じM7.3と巨大地震だったそうだ。神戸の時と違って余震も沢山来たが市街地が少なく郊外が多かったのと火災も起こらなかったので死者が41名と少なかったのが不幸中の幸いだった。それにしても本震より余震の方が大きかったなんて前代未聞だし、初めのは本震ではなくきっと予震(前震)だったのだろう。今日から雨だから家を失っての雨は悲しい。体調を崩される方も少なくないと思い被災地の皆様の状況が案じられて成らない、地震は少し宛東に移動しそうだが何とかこの儘無事収束し、被害に遭われた方々が一日も早く立ち直られることを心からお祈りして居りますm(_ _)m。
我々も南海トラフ地震が遠くないことを思い知るべきなんだろうね。決して他人事ではないぞ。

三省堂国語辞典(三国):
「帰納」と「演繹」
「帰納」具体的な事柄から一般的原理を引き出すこと、例えば何時も数学の点が良いことから自分は数学が得意だと考えること。「演繹」一般的な原理や事実から一つ一つの事柄を推論すること、鳥から玉子が生まれるのでペンギンも卵から生まれるだろうと考える。
新解さん:
「帰納」と「演繹」
前者は「個々の特殊な事柄から一般的な原理や法則を導き出すこと」、後者は「一般的な原理から論理に手順を踏んで此処の事実や命題を推論すること」
私は60年も前から「帰納」と「演繹」の解釈についてお互い同じことを言っているのではないかとよく理解できて居なかったし、新解さんを読んでも同じ思いだったが、三国を読んで目から鱗だった。「帰納」は論理的な蓋然性であり、「演繹」は論理的な必然性だったのだ。何時も新解さんが勝つのだが今回に限り三国の快勝だ。三国って小中学生向き辞書だから私の頭は小中学生程度だったんだな(;;)。

先週の読みたくても読めない字
彼女の意(こころ)を察すれば   

今週の読みたくても読めない字
母の仕事を(右)ける