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霞ヶ丘中学から星陵高校商業科へ

先週は霞ヶ丘中学生であった私達が校舎移設のため暫時、星陵高校の四階にて新設校舎で合併することとなる舞子中学の生徒達と共に学ぶことになり、四階には何故か威風堂々とした国会議事堂もかくやと思われる大講堂があったことまでお伝えしましたね。

私達は俗称アリラン峠(学校への登校に必ず通らねばならぬ急坂)に倍する大きな急坂を更に登って遥か山の上にある星陵高校四階へ登校し、舞子中学からは「細道」と名付けられた文字通り細い山の峠道を上り下りして登下校する舞子中学の生徒をクラス内に混じえて同じ教室で学ぶことになりました。舞子からの往還はずっと続く長い急坂でしたが通える体力を全員戦時中にしっかりと身に付けて居ました。

霞ヶ丘中学生を寄留していた星陵高校は太平洋戦争直前に俄にできた神戸四中が元になっています。戦後、兵庫県立神戸商業学校(当時は第一神戸商業高校を名乗る)と神戸第四中学(当時は垂水高等学校と名乗る)が合併して新制高校としての兵庫県立星陵高校の名前に変わったのでした。何故か明治時代から存続し多くの有名人を輩出した県商の校舎に星陵高校が入り込んで由緒ある県商は星陵高校の商業科と矮小化して小さく存続されることになった🤬のです。その後、批判の声が出て独立できましたが何故か学舎は星陵高校が離さず、県商は星陵高校の南側に安普請の新しく校舎を作りましたから、県商は星陵高校に庇を貸して母屋を取られた結果を招いたのでした🤬/。

原因は、戦後教育環境が大きく変わり、朝鮮事変を基因とする思わぬ特需景気の到来を受けて、国民に経済的な余裕が生まれたため、誰もが行かなかった大学に多くの若者が進学するようになり普通校が商業高校の上位に位置し、昔は崇められた専門職を養成する商業高校や工業高校が見下される環境に何時しか変化したためでありました。
戦前の大学は一部の人のみ通うところであって通常は小学校卒業後高等小学校2年乃至は中学5年間が最終学歴だったのですが、戦後の復興普通高校の地位が高くなり、商業高校や工業高校は少し宛衰退していきました。
間もなく創立150年を迎える「県商」(兵庫県立神戸商業高等学校)の前身は、1878年設立の古く明治の「神戸商業講習所」に遡り、わが国最古の歴史と伝統を有する商業高校です。その学校が戦後設立された県立第四中学如きに吸収され自身は星陵高校商業科だなんて🤬/財界多くの先輩たちは黙って指を咥えていたのでしょうか🤬/。私達はそれらの歴史についてあまりにも多くのことを知らずに過ごしてきましたが今思えば創立150年祭を間もなく迎えようとする由緒と伝統のある県商(当時は星陵高校商業科)から神戸商科大に進んだ私にはどうして借家人に母屋を取られなければならなかったのか全く合点が行きません🤬。とても悔しいです。どうして誰も怒らないのか!!

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