先週も暑い{%summer%}1週間でしたね。然し夜に雨が降ったりして朝晩の気温が下がり確実に秋の訪れが実感できます。昨日は久し振りで星陵高校同期の同窓会の集いが垂水駅前レバンテホールであり、丁度2年前に税金の話をした処、意外に好評で年明けに第二弾をと頼まれ乍ら忙しいからとかその儘延ばし延ばしにしていたのですが何時までも断れず、惚けない内に偶には人前で話位しておかないと結婚式でスピーチなど頼まれて狼狽えるのは嫌で、丁度閑な時期でもあるし引き受けたものでしたが、高額所得者優遇税制の矛盾について話してきました。税金の話は聴かれる方にとってきっと最も聴きたくない話の一つかと思いますが、矢張り知っておかれた方が良いでしょう。質疑も活発に出ましたが医療費と医療保険の関係について我々プロが考えもしない発想をお持ちの方も居られるので成る程そんな考え方もあるのかと驚かされました。誰でも思いこみと謂うものは恐ろしいもので、そう謂えば特定口座の分離課税だからと申告しないで損をした方が世の中一杯居られましたものね(今年からは定率減税廃止のため申告しても恩恵はなし {%gessori_a%} )。
自宅の裏を流れている溝は地下水で年中18度と快適ですがその水を引き込んだ自宅庭の池(蛙の居る事務所のビオトープとは一棟違い)には水槽で飼いきれなくなった金魚{%goldfish%}などが1尺位にもなって群泳していますが、何故か小さい金魚やメダカを入れると直ぐに居なくなるので不思議に思って注意して見ているとザリガニが数匹棲み着いていてこいつ等が悪さをして居るらしく、罠を仕掛けて此まで数匹捉まえましたが、一昨日ジャンボザリガニ1匹が捕まったので早速孫に見せてやりました。
不器用な孫はこのあとこのザリガニに指を挟まれて傷がつき半泣きでした。 {%naku_a%}
先日遠藤農水相が無念やるかたなき思いで辞任しました。どうしてこう農水省ばかり辞任問題が連続するのか不思議に思ってよくよく考えてみたら3年前米国産牛肉事件発端にいろんな事件が勃発しましたよね。そのとき事件を裁いたのが時の農水相武部勤であり、輸入源を辿りもしないで申請だけで多額な買上補助金の椀飯振舞(パソコンエイトクは大盤振舞としか変換しませんがこれは当て字であり間違いです。ジャストシステム聞いているか!)でハンナンの浅田などの懐を潤わせたことを皆様よくご記憶ですよね。彼は大口だったから捕まっただけで他に便乗して税金泥棒した連中は数知れませんが、全ては武部勤の杜撰極まりない判断によるものであり、彼だって自腹を切るのなら少しは考えたでしょうが、自分の腹の痛まない国民の税金ですから何も考えずにできたものでしょう。そしてあれだけ世間を騒がせておき乍ら総理の寵愛が深かったばかりにクビになる処か幹事長にまで栄転しましたから誰もがアッと驚きましたよね。きっとそのことに対し神様がお怒りになられての祟りが今回農水省の前代未聞の自殺や辞任劇が惹き起こされたものでしょう。武部勤があの事件の責任をとって潔く辞任していれば今回の事件は起こらなかったのではないでしょうか。松岡さんの奥さん赤城遠藤両元大臣の皆さん怨むなら小泉さんと武部勤を怨んで下さいね。 {%akkanbe%}
此処近年の離婚ブームは日常茶飯事となり我々昔人間ももう慣れっこで驚かなくなりました。一昔前は離婚した女性は“出戻り”などと陰で指さされ外出すら思うに任せなかったものです。最近ではTVなどが姦しく囃(はや)すタレント達の放埒な生活の影響もあると思いますが、芸能人を真似て離婚は勲章とばかりに“バツイチ”や“バツ二”の女性が恥ずべき事実を隠そうともせずに巷間を跋扈(ばっこ)し、合コンとかに参加しても伴侶を見付けられない気弱な世の独身男性を萎縮させたり羨望させたりしておりますが、時代の移り変わりとは恐ろしいもので女性の強さと謂うか不貞不貞(ふてぶて)しさには魂消てしまいます。戦前の女性は自己の意思は無いも同然であり、あっても胸に隠して出さず親が命ずる儘に見合いをさせられ恥ずかしさに畳の毳(けば)など毟っていて相手の顔も分からぬ儘に結婚し、それでも何となく子が生まれお互い寄り添って上手く行っていたのですが、それを思うと案外昔の夫婦には何時までもお互いの間に横たわって絶対にそれ以上近づけない僅かな距離があってそれが良い意味で秘密の恥じらいの部分となっていたことが夫婦和合の秘訣だったのではないかと思いました。
俗に割れ鍋に綴じ蓋と謂いますが、現代の若い女性は自分のことは棚に上げこんな俗諺は見向きもせずにイケメンでお金のある次男坊などを理想の相手として捜そうとしますから、自己中で欲が深く動機が不純であり自分に釣り合った相手では全く不満足なのでは先ず良い相手に巡り会う道理がありませんよね。 {%akkanbe%}
私は理想の伴侶と謂うものは捜して見付かるものでなく、それと意図せずに合縁奇縁で偶然に知り合ったもの同士が躊躇(ためらい)を重ねながら近づきあった結果がやがては自然体で萌える焔となって得られるものだと思っていました。“バツイチ”や“バツ二”の女性達は女性上位の社会環境の申し子であるとでも勘違いしたものでしょうか、それとも単に親の躾が悪かったのか己の欲が深かったのか辛抱が足りなかった単細胞の欠陥女性であったことを暴露しただけのことでありましょう。きっと内心ではバツイチを後悔しているに違いありませんが、人生は薔薇色など己が弛まぬ努力で勝ち得るものであって、決して亭主を変えて得られるものではありません。TVのメロドラマのように白馬の騎士が何処かから現れるなどと思ったら大間違いです。 {%akkanbe%}{%akkanbe%}
聖書に曰く“置かれた場所で咲きなさい”は考えさせられる良い言葉ですね。
先日作家の何方かが日経のコラムに書いておられましたが、夫婦というものは付き合っているときは最高の伴侶であると思っていても、結婚した途端に軋轢(あつれき)が生じ、価値観の違いから金銭感覚に、起床時間まで異なり、更には服の脱ぎ振りからトイレの使い方や食事の作法まで異なるとあっては戸惑うこと夥(おびただ)しく、夫婦別れをする人達が多いが、よくよく考えてみれば20数年間お互い異なった生活習慣で育ってきたことを思えば当然なことであり、それをお互い堪え忍び譲り合い、“子は鎹(かすがい)”と謂うように子供の誕生と謂う新しい存在がお互いの協力関係を密にしますから子供達を媒介として二人が結婚前に暮らしていた期間と漸く同期間を経過した頃になって漸く生活が馴染み苦楽を分かち合った充実した日々が到来するものだと記して居られたことでした。私も同感でありホンにその通りだと思いましたよ。それにしても婚前に付き合っていた薔薇色の日々があったばかりに結婚生活が色褪せたものになりお互いが幻滅して別れて行くなんて悲しいことですよね。
夫婦と謂うものは子供達が巣立って行って初めて本当の夫婦に成れるのかも知れません。“糟糠の妻は堂より下さず”とは後漢書にあるように、古い言葉ではありますが“愛染かつら”ではありませんが“♪花も嵐も踏み越えて♪”夫婦がお互い真に分かり合えるにはそれなりの年輪が必要なのでしょう。昔の女性が生活して行く上で忍従に耐えねばならなかったのは経済的な問題が大きく、反ってそれが年の経過と共に結果オーライを招いた意味があるのですが、最近はそれもある程度解消されて自立できる女性が増えたことも“バツイチ”“バツ二”が増産されている原因でしょうか。最近の男女は簡単に結婚し簡単に離婚するのはお互いが堪(こら)え性のなさに由来し、子育ての苦労を覚悟し、終の栖(すみか)まで考えて結婚する夫婦などなくなったためでしょう。
又最近では悲しいことに年金の夫婦分割など戯(たわ)けた法律までできて、離婚熱が熟年層にまで拍車を掛けていますが、愚かにも“糟糠の妻は堂より下ろさず”(注1)どころでなく堂から逃げてゆく糟糠の妻が多くなりましたから、それまで老後二人の生活を思って懸命に働いてきた男達の無念は如何ばかりでありましょうか。“人”の字は夫婦が心身共に支え合って生きて行くためにあるものだと考えていましたが、本当は一人でポツネンと立っている寂しい姿なのでしょうか。 {%gakkari%}
(注1)後漢の光武帝が姉の湖陽幸主と家臣の宋弘を結婚させようとした際に宋弘に対し “諺に、高い位についたら友人を変え、裕福になったら妻を変えるとあるがどう思うか”と宋弘に問うた処、彼は“臣聞く、貧賤の知は忘れるべからず、糟糠の妻は堂より下さず(私に聞く処では身分が低く貧しかった時代の友人は忘れてはならない、と同時に苦楽を共にしてきた妻は離婚してはならないとあります)と光武帝の申し出を断った故事による。(後漢書)
以上私なりに現代の女性の生き様について考えてみました。
今のこの時代多くの女性が男性に劣らず学を修め乍ら、盲目的に且つ献身的に男に事(つか)えてきた戦前の無学な女性に悖(もと)る愚かさはどうしたことでしょうか。
次回は幕末の儒学者佐藤一齋師の“言志晩録”を紐解いて、あるべき女性について考えて見たいと思います。
広島で行われたメジャー第一戦コニカミノルタ杯は4日間トーナメントであり、我等がさくら選手は先週の敗北を糧として踏ん張りましたが、暑さに負けたのかポーカーフェースの飯島選手に敢えなく返り討ちに遭い優勝には届かず2位は無念でした。 {%orz_a%}
さくら選手この1ケ月4週続けて優勝争いの渦中にありましたから心身共に疲れが出てきたものと思います。さくらちゃん1週休んで休養したらどうですか?