9月も半ばを迎えて、夜になると虫の声が喧しく、暑い暑いと言い乍らも秋が来たことを実感して居る。明日は本年5回目の振替休日だが1回目は1月2日だから実質的には4回目だ、未だ2回も残っている。こんなに沢山連休を作って貰っても不景気で給与も上がらず遊びに遠出する人達も多くないだろうから、仕事の疲れを取りたいサラリーマンにとって休日は水曜日位を振替休日にして貰った方が身体には優しくて良いのではなかろうか。
カレンダーには昨日15日は老人の日、明日17日は敬老の日となって居るが、老人の日ってなんだろ?街で買い物をしても何も負けて呉れなかったし:-)。
先日、漱石の「行人」(若いときから数回目だ)を読んで居たら、玄妙にして巧みな当て字にお目に掛かりウーンと唸ってしまった。彼の当て字は夙(つと)に有名であり、今や常用漢字の表外読みに多く用いられ辞典にも掲げられて居るから、誰もが漱石発とは知らずに平気で使っているが、今回「行人」でお目に掛かったのは「こそこそする」だった。ナント!「狐鼠狐鼠する」と書いてあったのだ!「こっそり」から来た言葉だから少し違う感じもしたが、「狐鼠狐鼠」とは言い得て妙であり、隠れて良くないことをするのだからイメージもピッタリで昔は本当にこんな字があったのではないかと疑った、然し広辞苑にも新潮国語辞典にも明鏡国語辞典にも平仮名しか書いてなく、矢張り漱石流の当て字なんだなあと思ったが念のため今春手に入れたけれど私には文字が小さすぎて読めないので孫に遣った大槻文彦著「大言林」を見て貰ったらこの辞書にはちゃんと「狐鼠狐鼠する」と書いてあったそうだ^^。漱石はきっと「大言林」を見て書かれたのであろう。狐と鼠に罪はないが昔の人は上手く当てたものだと数日の間感服頻りであった^^。
最近は漱石を読み返すことが多い、先週も就寝前に「三四郎」を読んで居たら、今度は寺子屋のことを寺小屋(新潮文庫232頁)と書いてあった。漱石は稀代の文豪で教科書にまで載せられ、顔写真が千円札にまで使われて、国語の神様とまで思われて居るが此の誤りには甚く愕いた。まさか新潮社が原稿を読み間違ったとは到底思えない「弘法も筆の誤り」で国語の神様もついうっかりペンが滑ったものと思われるが、此ばかりは漱石の造語だと承服する訳には行かないぞ。この言葉は寺子が主語であって寺ではない、従って「寺に集う子供達が学ぶ処」を「寺子屋」と呼ぶので、断じて寺小屋ではないことがお分かりだろう。漢字検定4級辺りの「誤字訂正」に良く出てくるから私も憶えて居たが、でなければその儘読み過ごしてしまっても誰も気付かなったのかも…(;;)、漱石も人の子だったな^^。
尖閣諸島が中国に侵略されようとしたとき中国を刺激することを恐れて民主党政府が袖手傍観見て見ぬ振りをしようとしたことに対し、石原都知事がことを愁いて所有者の承諾を得て東京都で買うと表明した。処が都知事に賛同した国民からの寄附金が14億円まで届いた今になって所有者が売買代金を当初約束の15億円から20億円に値を吊り上げ先日政府に売り渡すことに決めたそうだ:-)。政府が政府なら金で面(つら)を張られて都知事との約束を反故にした持主も持主だな、持主の栗原氏は私と同世代の人間だと思うが戦争に負けてチャンコロに大きな顔された屈辱を忘れたのか!態度を変えた理由は「寄附金に抵抗があり、心苦しかった」そうだが、ものには言いようがあるもんだな、野田政権の使う税金だって国民の寄附みたいなものであり寄附よりもっとタチの悪いものだろが…:-)。国もそんなに金が余っているなら福祉予算にでも使ったらどうなんだ!
苦境に立った石原都知事は此までの寄附金を国に渡すと発言したのを撤回したそうだが、一体から14億円をどう処理するつもりだろう。抑(そもそも)寄附金は石原都知事の侠気に対して国民が同意したものだから、東京都が買わぬとなると寄附金は宙に浮いてしまう。私は14億円を募金者に返却されるべきだと思うが、寄附金控除の証明書を依頼すべく住所氏名を明記して振込通知書を都に送った方以外は相手先不明で返還を受けられなくなる(;;)。東京都在住の方なら都のために有効に使って貰えば…と懐の深さが示せるだろうが、他府県の方は尖閣購入資金に使用されないと詐欺みたいになるぞ!

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私は尖閣を断じて野田政権の手に渡したくなかったから、石原都知事を信頼し侘びしい懐を遣り繰りし寄附したものだが誰が一体どうしてくれるのか:-)。
先日の夕刊で面白い記事にお目に掛かった。「憂楽帳」と名付けられ記者さん輪番でのエッセイだったが、記者である筆者が関西から東海地方に転勤になるとき幼稚園から小学生になる娘に「向こうではお友達の話す言葉が違うからね」と話したら、「あっちでは『なんでやねん』をどない言うのん?」と聞かれ返答に窮し、「あっちでは『なんでやねん』に当たる言葉はないんや」と教えたが納得行かぬ様子だった。と書かれていたので、『なんでやねん』はあっちでは「どうして」とか「どうしてなの」でよいのではないのかと私は疑問に思ったが、後を読んでみるとこの少女が言いたかった『なんでやねん』は単なる疑問詞ではなく関西地方で日常使う「つっこみ」であり、相手に返事を求めず双方がワハハ^^と笑って終了する会話の終着駅だったのだ^^、其れを察した上でのお父さんの返答だったのだが、トンマな私は全くその雰囲気が全く読めずに気付かなかったのは恥ずかしい(;;)。諧謔とでも謂うのかユーモアなのかこの言葉は関西独特の所産であって、転居先の東海地方では誰もボケやつっこみなど全く使って居らず、此の少女は大阪とは別世界で戸惑い息が詰まった生活ではなかったかと思ったものだ(;;)。
関西弁と謂えば乱暴だが何処かフンワカした河内弁が興味深い^^、私は若いとき親に勘当されて八尾に住んで居たことがあり、此処の河内言葉は得も言えぬ可笑しさがあり、会話の語尾に「あほんだら」とか「ボケ」が付いて喧嘩腰のようだが良く聞いてみると温かい心が通っていて、仕事などで上京する度に何時も怒られているよう冷たくに感じる「ご機嫌よう」とか「…して呉れ給え」と他人行儀な東京言葉と実に対照的だった。大映映画の「悪名」(古い話でゴメン)で浅吉の子分である清次こと田宮二郎(此の映画でスターになった)の河内弁の威勢の良い諧謔で思い出されたと思うが、我々関西人には慣れっこになって居る会話での言葉の遊びを他の地方の人はどんな風に受け止めて居られるのか考えれば興味深い、田辺聖子さんは「あほんだら」や「ボケ」は決して相手をアホと思って言って居るのではなく単なる会話の終了時のオマケ言葉だ、といちいち著書に注釈を付けて居られるが、成程、知らぬ他所の人が聞けば「どうしてこの人は相手にこんなに面罵されねばならぬのか」と訝しがられるよな。相手との距離をなくし親愛の情を示す反語なのだと知るのに時間が掛かる。
関西弁は好きな男に対する女性の言葉にも関西独特の色気と情緒があり、標準語で「私を捨てないでね」は命令口調で男の反感を買うが、関西弁で「うちを放(ほか)さんとってな」は男が聞いたら可愛くて抱きしめたくなる殺し文句だ^^。男の言葉にしても「君を愛している、結婚して下さい」などよそよそしい言葉より「めちゃ好きやねん、一緒になろ?」の方がずっと相手の心の琴線を激しく掻き立てる言葉ではなかろうか。何故か知らぬが狭い日本でも関西だけが異次元の文化を共有して存在し、言葉のアクセントにしても岡山県と愛知県の間にある六府県だけ異なっているのは不思議でならない。大古は関西地方だけ一つの島だったのが地震か何かで引っ付いたのではなかろうかと思ってしまう。何故なら他所の人にはどうしてもマネのできないのが関西弁であり、どんな上手い俳優でも関西出身でないと必ずアクセントにボロが出るから可笑しいよな^^。「憂楽帳」に導かれ、柔らかくて温かい関西弁の中で育ったことをつくづく仕合わせやと思ったものだ^^。実を言えば、毎日傍に居て五月蠅くしている婆さんは「めちゃ好きやねん、一緒になろ?」此の一言で50数年前コロリとその気にさせた^^。そのとき勿論彼女は「うちを放(ほか)さんとってな」と言ったものだ(^^)。そのとき何気なく「うん」と言ったお陰で今では放したくてもしがみついて離れない…(;;)。
先週の常用漢字の表外読みの答え
彼奴は(敏捷い)奴だ。(はしかい)でした
今週の常用漢字の表外読みの問題
新聞紙で野菜を(包む)
(つつむ)は常用漢字の読みです。